渋谷コントセンター

文字サイズ

2016年6月25日(土)~6月26日(日)

テアトロコント vol.8 渋谷コントセンター月例公演(2016.6)

主催公演

公演詳細

男性トリオによる狂気な展開コント群
今回のテアトロコントは男性トリオ縛りの回であった。それによってトリオならではの、関係性がどう複雑になっていって、話が縺れ、展開が進んでいくかが、それぞれのトリオでの演目で違って見えたので面白かった。前回も女性が多く出演した回だったので、こういった縛りを持ったテアトロコントは今後も続いたら面白いと思う。また、アフタートークは演劇にもコントにも精通した方がゲスト参加される方が話が断然に弾むので、今後も続けていってほしい。
1番手はリンゴスター。1本目と2本目のコントはシステム通りに進むものなので、笑いが起きやすく、見やすい。そのキャラ通りの展開にもなっていくので、普段ライブに出る際はこういうコントを演じているのだと思う。3本目の『無礼講』はもう少し展開が1歩進み、関係も複雑になっていく。同僚の平田と高野が飲み会で上司の小川に酔った勢いで悪い絡みをするが、実は二人とも酔ってなく、それで日頃の恨みつらみの復讐をする。しかし、上司の小川も実は酔っておらず、最後高野に悪い性的な絡みをする。誰が酔っている事を知っていて、または知らなくて、という状況と同僚二人と上司の上下関係とが複雑に絡んで面白い展開になっていった。音響で笑い所を見せやすくした工夫もあったが、関係を複雑にして一つ先の展開を設けた、お笑い芸人側からのコント演劇アプローチに思えた。
2番手はテニスコート。1本目『病室』は手術を怖がる子供をプロ野球選手がホームランを打つ約束をして励ますというベタ設定の演目だが面白かった。お母さんは野球に無知、子供は素直に無茶を言う、野球選手はバントの名手という関係性で、誰も悪意が無いのに話が拗れ、誰も悪くないのに結果傷つけ合う形になる可笑しさを見せてくれた。2本目『昔かたぎ』が今回のテアトロコントの個人的なハイライト。神谷演じる昔かたぎのヤクザらしき親分が「訳の分からねぇモノが増えてきた」と言ってから、舎弟の小出とエスプレッソマシーンやHey! Say! JUMP、美ST、所有しているi PadからAmazonプライムでダイソンの羽無し縦長の扇風機を買おうとする事など、これでもかと2016年現在のモノについての知識を言い合う。昔かたぎなのに新しいモノに滅茶苦茶詳しいというシステムが出来ているので笑いやすい。そもそもの話は舎弟の吉田がヤクザらしき他の島を荒らしてしまった事に対して神谷が「ほとぼりを冷ます」と言い、小型のキャリーバッグから吸盤らしきものが沢山付いた壺らしきものを取り出す。それが「ほとぼり」だと言う。神谷がそれを口でフーフー冷まし始める。そのモノ、その神谷の行為が一番「訳の分からないモノ」であった。ただの感想だが、本当に腹を抱えて笑った。意味なくでっけぇオブジェがフーフー冷まされ、暗転するまでずっと舞台中央に鎮座され、しかも最終的にはそれは「ほとぼり」ではなく「やぶさか」だという事が判明し、最初から最後までくだらなかった。本当くだらなくて最高だった。
3番手はフロム・ニューヨーク。演目は『撮影』の1本のみ。誰がボケで誰がツッコミであるというのは決まっておらず、会話の流れでそれぞれが訳の分からない事を言い、それを訂正したり同意したりで脱線がずっと続く。アフタートーク内でもお笑いはボケ所をしっかり提示するが、演劇はそれを自然にさせながら笑いが来るように作られている点が言われていたが、それを体現しているのはフロム・ニューヨークであると思う。全員がメリハリを持たず、自然な会話の中で無茶苦茶な展開になっていく様は狂気の沙汰であった。
4番手はGAG少年楽団。コントは全4本。それぞれ異なる種類のコントをしつつ、その合間にそれぞれの自己紹介的な芸を見せる構成。福井による前置きの文章でも書いてあるが「ダサい男、男のダサさが常に主役」となっているコント群であった。テアトロコントでは話や関係が複雑に縺れ合ってあらぬ方向へ展開する演目が見たいので、1本長尺の計3本ぐらいで観てみたかったのが本音だが、それだと賞レースにも持っていけない事もあると思うのでなかなか難しいか。逆に言うと、ここでしっかりとボケ所のある笑いを見たので、フロム・ニューヨークとは良い対比であったと思う。宮戸がキメキメの女装をして演じているのに対し、テニスコートが普段の衣装のままお母さん訳を演じるのもコントと演劇の境っぽさがあった。(倉岡慎吾)

お母さん!俺はじめて“ほとぼり”ってもんをみたよ…!ぼったくり、満員電車にほとぼり。東京ってすげー街だ!
気鋭のトリオが揃い踏み『テアトロコントvol.8』

Amazon primeってそんなに便利なのか〜。へぇ〜。テニスコートのコント『昔かたぎ』。このコント、仕事で命の狙われることになった下っ端のヤクザが、”ほとぼり”が冷めるまで身を隠す……というよくある設定だ。しかし、壇上にはその“ほとぼり”が出てきた。無数の穴があって、岩のようでもあるそれは、黄色で艷やかに光沢している。……お母さん!俺はじめて“ほとぼり”ってもんをみたよ…!ぼったくり、満員電車にほとぼり。東京ってすげー街だ!
 話が脱線したので、戻そう。テニスコートは、2月の『テアトロコントvol.5』以来2度目の登板。奇しくも、今回のvol.8は芸人も演劇からもトリオという構成だった。トリオ特有の不思議な人間関係が縦横無尽展開。テニスコート『昔かたぎ』は、舎弟のために“ほとぼり”を冷ますために親分が四苦八苦する。最初は吐息で冷めそうとするが、全くほとぼりとやらは全く冷めない。そこで、扇風機で冷まそうとする。親分はAmazon primeに入っているから、即日届くらしい。さすが、親方!なんでも知っているんだぜ! けれども、変なところで親分は『昔かたぎ』で、いちいち仁義っていうもんを気にするわけです。
 「3オクターブの寸劇」吉本興業からGAG少年楽団。選りすぐりの4本を上演。宮戸の芸達者な演じ分け。『寿司屋』では金髪巨乳、『カラオケ』では清楚系女子大生『地元の友達』でクズ女。えー! ほとんど女じゃん……。やはり、というかコントを得意とする彼らのネタは、3人の関係性が効果的に使われていると思うわけです。坂本と宮戸が変な人を演じていて、その異次元過ぎる世界に福井のツッコミで我々はスッと旅立つことができるのです。「ああ、いるよねこういうの」みたいなよくある話をぐつぐつと煮込んで、ゲテモノ料理みたいに変えちゃう3人。もっともっと、GAG少年楽団の目指すお笑いが僕は見てみたいな。(早川さとし)

完成度の高さとある種の飽和感、新しい局面
ラインナップが非常に充実していた。それぞれの団体はもとより、演目のひとつひとつを見ても、その質は甲乙つけがたい。
コントのフィクション性を上手く利用し、絶妙なメタ的観点を面白さに変えるリンゴスター。意表を突くような発想を丁寧に掘り下げることで、圧倒的な独自世界を作り出していくテニスコート。緻密なリアリティの追求と、それを大胆に狂わせていくことの秀逸なバランスが光るフロム・ニューヨーク。女装変装を多用した王道かつ奇抜な路線で、コントの魅力を存分に味わわせてくれるGAG少年楽団。今回は、どの団体も男性のみの三人組という共通性を持っていたが、似たようなタイプに陥ることなど全くなく、各自の個性と強みを見せつける精度の高いネタを見せていた。本当に全体として面白く、来場者はみな一定の充足感を得て帰路についたのではないだろうか。
それゆえに疑問が残る。この、飽和状態にも似た、ある種の物足りなさは何なのだろう? 
フライヤーを参照すればわかる通り、「テアトロコント」は、お笑いのコントと喜劇系演劇を同ステージ上に並べ、両者の境に目を向けることで、そこに新たな化学反応の可能性を探っていくという趣旨を持つ。単なるお笑いのライブ企画というよりは、一種の実験場といえる。
そしてこの試みは、回を重ねることで徐々に結果を示してきた。すなわち、「コントと演劇はどちらも面白さにおいて優劣は無く、両者の間に垣根など存在しない」という印象にまとまりつつあるのであって、これはほとんど結論に近いようだ。もちろん、それぞれの手法的特徴による差異はあるだろうが、結局、笑わせるという第一の共通目的を前にしたとき、そこに壁はないのである。そうとして、気掛かりになってくるのは、最早この企画がその結論に尽きてしまっており、袋小路に入り込んでいるという事態についてに他ならない。つまり、コントと演劇を並べて両者を比較し、双方が持つ客層に互いの良さを紹介し合うという段階は、既に終わりを告げているのだ。これから見据えていくべきは、まさに「交流を越えて化学反応を起こし、新しいジャンルが創出」される瞬間なのではないだろうか。今回のvol.8が見せた完成度の、ある種の飽和感は、来るべき次なる局面へのひとつのメルクマールだったのかもしれない。
それでは、コントと演劇を引き合わせることで、一体どのようにして新しい現象が生まれ得ると考えられるだろうか。という具体的な問題に、すぐさま直面することになるわけだが、一観客の予感としては、それはまず、出演者たちの意識の中に生じてくるのではないかと思う。それはつまり、コント・演劇両方の客層が入り混じったこの会場を前にしたときに、彼らがどういった態度をとるのかということだ。普段、彼らはそれぞれ、自分たちのことを好んで見に来るような客層に支えられているわけで、当然の如くあるいは深層心理的に、そういった人々の需要を意識したパフォーマンスを提供しているに違いない。(ここにあるのは与える側と受け取る側の上下関係といった問題ではなくて、観る人がいなければ現実としてライブが成立しないために、必然的にそのような相互関係が生まれているということである。)出演者たちは、集まった客席の様子からその表情、反応を読み取り、少なからずそれに適応していくだろう。言うまでもなく、「テアトロコント」は、まさにこの過程に対し、特異な効果を与えるのだ。平生と異なる客層や環境に対し、彼らが、自らの見せ方として一体どのようなかたちを選ぶのか――少しばかり相手のジャンルを意識するかもしれないし、全く動じないかもしれない。いずれにせよ、その選択の結果は客席の微細な反応となって返ってくるのであって、重要なのはそれが、「ウケた」か「ウケなかった」かの二者択一、ではない、かもしれないということだ。(会場の客席内に身を置くと、哄笑のうちにも、多様な人の多様な感情を拾うことができるはずである。実はそれらは、意外と一辺倒なものではない。)もし、コントおよび演劇の制度の枠を越えた「新しいジャンル」なるものが生まれるとすれば、その片鱗は、出演者たちが、そうしたこの場ならではの観客の笑いの質感を敏感に見て取り、それを捉えて吸収するための挑戦をし始めるときに見えてくるのかもしれない。
ともあれ、これはひとつの憶測に過ぎないし、全く別のかたちで革新が現れることにも期待したい。vol.8は、この企画の可能性について考える上で非常に興味深い回だった。(アサクライコイ)

TOP