渋谷コントセンター

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2017年12月15日(金)~12月16日(土)

テアトロコント vol.24 渋谷コントセンター月例公演(2017.12)

主催公演

公演詳細

粘着な静回
今回は演劇側が2組とも二人芝居だった事もあり、静かな会話劇が軸となる回であった。水素74%も、古屋と奥田も、一対一の押し問答形式で話が展開していく。基本はゆっくり間を取りながら、相手の心情を推し量り、時たま怒気を含んだ声を出しつつも、それは大人として良くないと冷静になる。そのループ。
水素74%は公演パンフレットの前書きにあるように、その気がある雰囲気を纏った小劇場女優と、それに性欲を駆り立てられてしまった演出家の話。演出家が欲望のままに動くので話としては分かりやすい。「しじみ」さんという女優さんが、しっかりその芸名らしい天然な振る舞いをアフタートークでしていたが、それもあの演劇から地続きなような気がして気持ちが悪い。普段天然な女子が誘い込むというリアルが変にくすぐったい。「イケるかも…!」と思わせてすぐに落とすのが上手い。そんな匂いがあった。
また水素74%はヤレない事が分かった演出家の「え〜、もう何で〜」的な駄々のこね方のネチネチさが印象に残っている。欲望が叶わなかった大人の駄々は醜い。
古屋と奥田はお互いの嫌な所を突くネチネチさ。作家と編集者、そして大学の先輩後輩の関係である故に、言葉の脚色に関して、過去の出来事、女性問題に関しての押し問答が時折怒気を混ぜつつ続けられる。優勢劣勢が交互に訪れ、スピーチの山を超えても尚口論は続きフェードアウト。とにかく嫌味合戦の30分。互いの心理状況を読み取り、言葉の揚げ足を取り合う。作家と編集者のフリースタイルダンジョン状態。展開的にお互い歩み寄る場面もあるかと思ったが、どちらもプライドの高さ故にディスの応酬が続く。
今回演劇側の2組は、どちらも二人芝居な事もあり、関係性はとても単純。水素74%は欲望が拗れて、古屋と奥田は怒りがぶつかった。そしてどちらも大人だから、その様が格好悪い、ダサい、見苦しい事は分かっているけど、そう振る舞わないと拗ねた心が落ち着かない。だから、静かに戦う事になった。
静かな回の中でテンションの高いコントを演じるや団は今回しんどかったかもしれない。ちょっとムードと違ったかなという印象。「感じの良いマスターの居るバーかと思ったらオカマバーだった」、「標的を撃とうと思ったら別のスナイパーがやって来てどうやらこのビル、スナイパーの穴場スポットらしい」など、設定自体がボケになっていて、そのバラし方で一笑い起こす方式は事務所の先輩であるバイきんぐの影響であろうか。
わらふぢなるおは、ふぢわらが淡々と唐突なボケを繰り出し、なるおが強めな口調で説明的に突っ込む。ふぢわらのボケが設定から外れた時、なるおの外見で笑う時、パワーワードが繰り返し使われた時はサンドウィッチマンを彷彿とさせた。よくよく考えてみれば、淡々とした佇まいからの唐突なボケと強いツッコミはサンドウィッチマンのそれだ。事務所もなるおはグレープカンパニー。今回のお笑い側は偉大な先輩のネタ構成を継ぐ者達であったとしみじみ思う。(菅野明男)

2つの道(とある女の場合)
渋谷駅で慌ただしく降りた私は、都会の喧騒をかき分けて、およそ10分で劇場へ着いた。
席が思ったよりふかふかだったこともあり、座るなり疲れがドッと押し寄せてきた。たまたまツイッターで知ったお笑いライブへ行こうと思ったのは数日前だ。普段、劇場なんかに来ることはないが、ここ数ヶ月の仕事地獄のせいで、とにかく何も考えずに過ごす時間が欲しかったのだ。ていうか……疲れてるなら家にいればよかったじゃん。お笑いならネットでも観れたし。でももう来ちゃったし。自業自得だし。ヘトヘトで森を歩いている時に別れ道で「家」と「劇場」ってプレートが立ててあるのに、「劇場」の方を選ぶようなものだ。どんなたとえだ。そんなことを考えていると、周りが暗くなっていった。
4つのグループが(中には一人の方もいた)、それぞれ30分の持ち時間を、数本のコントを数珠つなぎにしたり、1つの話を30分演じたりする、という内容だった。観ている最中、ふと思った。
「コントと演劇の違いって何なんだろう?」
たとえば、トンツカタンというグループが演ったコントの1つは「喧嘩相手をキスで黙らせる」というものだった。水素74%というグループは30分、「舞台演出家が、自宅に来た女優の言動から自分に気があるんじゃないかと勘違いする」という話を演じた。(女優にもそれらしい言動があるので、勘違いではないのかもしれないが)。トンツカタンはコントに見えたし、水素74%は演劇に見えた。なぜ私はそう思ったのか?トンツカタンの話が5分程度だったから?一方、水素74%の話が30分だったから?理由の1つだろうけど、トンツカタンが「喧嘩相手をキスで黙らせる」という話を30分演じたら、やっぱり私はそれをコントだと認識するように思う。
じゃあ何が違うのか?
トンツカタンの話は、開始1分も経たないうちに、話の全貌が見える。つまり「喧嘩相手をキスで黙らせる」だと分かった上で、物語が進む。お笑いなどあまり観ない私でも「こうなるんだろうな」と予想し、その通りになったり裏切られたりする。一方、水素74%の話は、徐々に物語が分かっていく。もちろんその時々でなんとなく分かるのだけれど、全貌を知ろうという興味が続くことで、引き込まれていく。時間の長尺と共に、この違いも理由の1つだろう。
あともう1つ。トンツカタンは、どこか素の部分を残しつつ演じているのに対して、水素74%はそれを感じない。これも理由かもしれない。
では、両グループがそれぞれ全く同じ話を演じて、アプローチをそっくりそのまま入れ替えたらどうなのか?つまり、トンツカタンが「喧嘩相手をキスで黙らせる」という話を30分間、徐々に話が分かるように、素の部分を見せないで演じたら。水素74%が「舞台演出家が、自宅に来た女優の言動から自分に気があるんじゃないかと勘違いする」という話を5分で、開始早々物語を提示し、素の部分を垣間見せつつ演じたらーー。
そんなことを考えながら観ていると、出演者全員のトークが終わり、周りの客が立ち始めた。あれ、私、何どうでもいいこと考えてたんだろう?面白かったらいいじゃん。セ・リーグとパ・リーグの違いくらいどうでもいいじゃん。いやいや、それはDHという決定的な違いがある。ていうか何も考えない時間が欲しかったのに、何やってんだろう?まあ、少なくとも、家にいるよりよかったのかな。道に迷ったら、たまには選ばない方を選んでみるのもいいものだな。いやいや、森ではやっぱり「家」を選ぶべきだろうけどさ。
劇場を後にし、私は神泉駅へ向かった。渋谷駅から来た時とは違い、喧騒もなくどこか趣のある住宅街を進んで行くと、あっと言う間に駅へ着いた。今度は神泉駅から劇場へ来てみよう。それだけでも、何か違った時間が生まれるかもしれないから。(考える馬)

笑えない範疇のケンカ
ケンカ漫才は面白い。ブラックマヨネーズが代表的だと思うが、コンビで言い合いをする漫才はハマれば爆笑が待っている。コントでも同じことが言えるが、あまりにリアルで陰湿なケンカは笑いの域を超える。意見の対立はそれぞれの、もしくはどちらかの異常さを露呈させ笑いに繋がる。ただし、どちらも「正常」なままケンカがエスカレートするとき、それはもはやお笑い・喜劇ではなく、人間関係が崩壊する様を描いた悲劇に近づく。
古屋と奥田『披露宴』が描くのは、そういうケンカだ。古屋(役名同じ、奥田も)は新進気鋭の作家で、年下の奥田はその編集者。彼らは大学の先輩後輩で、共通の友人の披露宴に列席している。二人合同のスピーチをする予定の彼らは、「作家と編集者」「大学の先輩と後輩」という二重の立場でスピーチ原稿を本番直前まで練っていく。原稿の内容と日頃の不満でケンカ寸前の状況を、奥田のギリギリの言い回しで回避していく。
しかし、ある瞬間にそれが崩壊する。古屋が奥田を見下した瞬間だ。売れっ子の俺と違って、お前は小さな悩みを持てていいよな。作家を目指して夢破れた奥田は、古屋の原稿へのダメ出しと古屋個人への人格批判を混ぜていく。半ば意図的に、半ば制御できずに。奥田は古屋の不倫に言及し、そんな奴が披露宴でスピーチするのかと言い放つ。そしてスピーチ本番。大人であり、新郎の友人であり、披露宴の場を壊してはいけないという最低限のモラルを維持しつつ、二人の関係が音を立てて崩れていく。このスピーチのシーンはセンターマイクの存在もあり、壊れたケンカ漫才のようだった。ただし劇中の二人には笑い事ではない。
スピーチ終了で劇も終了、とはならない。スピーチを終え、テーブルに戻った二人。観客は関係の修復という展開を期待したことだろう。しかしその期待は静かに、確実に裏切られ、救いのないまま劇は終わる。
わらふぢなるおのコントも、一種のケンカである。ただしこちらは、奇人と常識人の。どちらに分があるかは明白なので観客は安心して笑える。ふぢわらの奇行を、なるおのツッコミが痛快に斬っていく様を楽しめばよい。異常に失礼だが、彼なりの厳密なルールに従って(それが社会通念と大きくかけ離れているが)熱心に働く男と、それに振り回される客。特に、スマホの修理店の店員が凄い。彼は客に、スマホを舐めることを執拗に要求する。論理から完全に外れた要求だ。これが(私の記憶では)4度ほどあり、少し恐怖した。「天丼」の域を超え、瞬間的にホラーの域に入っていたように思う。
二組が演じたのは、大雑把に言ってケンカコントである。しかし正義のわかりやすさ、二人の関係性、修復の必要や可否、ケンカの目的等によって印象が全く違う。古屋と奥田は悲劇、わらふぢなるおはサイコホラーでもあった。あらゆるジャンルを飲み込める「コント」という形式に改めて感動する。(森信太郎)

関係性に見え隠れする、笑いとプライド
剛速球のストレート、切れ味抜群のカーブ、落差の激しいフォークといった決め球を武器に相手バッターをなぎ倒し、勝利を重ねるピッチャーは、観客やマスコミの視線を集め、ヒーローとして称賛を浴びます。しかし、その栄誉は彼一人で手にできるものではありませんよね。たとえ、全て三振で完封勝利を収めたとしても。そう、そこには必ず、配球を指示する頭脳役、キャッチャーという存在がいるのです。
結婚披露宴の会場に遅れてやって来る一人の男。イケメンでシャレオツ、周囲に愛想を振りまいて、軽佻浮薄なオーラを纏う、羽振りのよさそうなその男は、バブル時代のモテリーマンを思わせる。隣の席で彼の到着を待っていたのは仏頂面で寡黙な男。二人は共通の友人である新郎に、はなむけの言葉を贈ろうとしていた。遅れて来た男が、書いてきたスピーチ原稿を懐から出す。待っていた男が文字を目で追い、溜め息交じりに苦言を呈す。「ファクトチェックがなってない」「リアリティがない」「あなたの小説の悪いところが全部出ている」。そう、遅れて来たのは今をときめく売れっ子作家で、待っていたのは彼の担当編集者。最近、チヤホヤされ、調子に乗っている作家に対し、編集者は積み重なっていた思いをぶちまけるかのように、小声で容赦なくダメ出しを続ける。そして、彼がやらかした不倫の一件に口を出す。自分の弱みを的確に突かれ、まともに反論できない作家は、学生時代のエピソードを持ち出し、反撃に出る。大人げない応酬がテーブルで続く中、やがて彼らのスピーチとなり、ギクシャクしたまま喋り始める。自らの行動を棚に上げた祝いの言葉に、編集者が小声で茶々を入れる。作家はその場を何とか取り繕おうと、汗水たらし、喋り続ける。
ここで「おやっ?」と思わされます。この構図には既視感が。スタンドマイクを前にして、丁々発止とやり合うさまは、そう、まさに漫才。すると、先程のテーブルが不思議と楽屋に見えてきます。舞台裏で険悪なムードの漫才コンビは、ごまんといると言われていますね。それは、互いを理解し合っていないからかもしれません。コンビには役割があるのです。ボケとツッコミ、ピッチャーとキャッチャー、作家と編集者というように。関係性の中にある微妙な心理に焦点を当て、笑いを引き出すコントの舞台が披露宴。そこには、夫と妻の関係性も内在されています。実によく考えられた舞台設定。そして、もう一つ、こうしたコントの台本を書き、古屋隆太さんと奥田洋平さんという演技力の高い役者を操る演出家、玉田真也さんの自負までもが観客の脳裏に染み入るようにジワジワと伝わってくるのです。(市川幸宏)

ルシファー吉岡が、芸人の傍ら教師をやっていると言われても全く不思議じゃない仕上がりだった。
【1】トンツカタン<コント師>三人組/★★★☆☆/「俺とタイマンで勝負しろ!」ケンカ最強の実力者にタイマンで殴りかかった男子高生が、番長に唇を奪ばわれるカウンターで思わず舎弟になってしまう『ケンカ』から始まる学園モノ6作品。タバコを吸う不良にやめなよ、と仲裁してアイコス等やたら健康的な提案をする『やめなよ』。男女がぶつかって倒れ(ラブコメ)、女子高生は死亡(サスペンス)、魔法で復活(ファンタジー)、因縁の闘い(カンフー)とジャンルが次々に倒錯する『ジャンル』など、子供っぽく無邪気な世界観が、入りやすくトップバッターにふさわしい。学園モノ縛りだけあり、6作品の振れ幅が少し狭く、後半、刺激と展開に慣れてきてしまった所に30分尺の難しさを感じたが、今後の出演に期待。
【2】水素74%<演劇人>出演者:二人/★★★★☆/劇団の男性主宰の家飲み。終電過ぎまで一人残った女優と二人きり。「じゃあ一つのベットで寝ましょう」と女優はあからさまなモーションを仕掛けてくるが、主宰が襲い始めた途端に不機嫌になり、そそくさと帰ろうとするのを必死で引き止めようとするほどこじれる会話劇。「演劇の主宰と女優の色恋でこんがらがった糸」という設定そのものは普遍的でも会話で引き込むのが水素74%。二人芝居にしたとこで、過去出場二作品よりシンプルで太い線になっていた。余談だが、この作品の女優心理が理解できないと知人女性に相談した所、「相手をその気にさせることだけが目的のあるあるだね」との答えをもらった。もしそれが本当なら、昨今の#metooを筆頭としたセクハラ・パワハラ問題は今後ますますこじれていくのではと戦々恐々としながら、コントなのに、女優の行動に真面目に苛立ちを覚えてしまった。
【3】ルシファー吉岡<コント師>一人/★★★★☆/「はーい!ざわざわしなーい!」。手を叩きながら始まるルシファー演じる、怒涛の学校教師ネタ四連作。前回テアトロコント出演時も披露した、歴史上の悲劇をあまりに嘆く生徒達で学級崩壊する『歴史』をベースに、暗転しても暗転してもずっと先生。『ある先生に花束を』では、先生の名前がイケメン俳優福士蒼汰と一文字違いという自己紹介に始まり、ズボンのチャックが空き。、見合いに一喜一憂し、名台詞が炸裂する先生。その度に生徒のLINEグループは賑やかな文字とスタンプが、TRFの音楽とシンクロしながらスクリーンに踊る。ラストシーンの卒業では同じ生徒の一員の気分になれたような謎の感動もあった。実は芸人の傍ら教師をやっていると言われても全く不思議じゃない仕上がりだった。
【4】古屋と奥田<演劇人>二人/★★★☆☆/友人の披露宴。一つのテーブルに座る男編集者。そこに遅れてやってくる小説家。二人は新郎も含めた旧友であり、上り調子の作家と編集者。編集者は作家の才能に嫉妬しながら、不誠実な創作姿勢に密かに不満をつのらせていて、二人で喋る友人挨拶用の原稿へのダメ出しをきっかけについに爆発し、作家も応酬する愛憎喜劇。観てるだけで疲弊するような状況だが、作家の思い上がりと編集者のコンプレックスが、言葉の一つ一つが実際に格闘してきた人間にしかわからない重みで満ちていたし、彼等の愛憎は、まさにそのまま旦那と女房の愛憎とも対応し、結婚式という設定とどことなくつながっているようにも思え、重いながらも不思議な笑いも要所にこぼれた。
【総評】ルシファー吉岡の一つ一つのネタが積み上っていく先生ネタが30分の使い方含め洗練されていた。アフタートークに関してだが、たまに話すネタに困っているような時も感じられるので、開場中、休憩中にハッシュタグで出演者への質問ツイートを観客から募集し、アフタートークで答えてもらう、とういうような仕掛けがあっても面白いかもしれない。
(モリタユウイチ)

批評と笑い
 3人というのはとても演劇的要素が含まれている。少し想像して欲しい、何もない部屋にあなたはやって来た、しばらくすると部屋に1人入って来る、この人は誰なのか? 敵か、味方か? 更に1人入って来る。この人は、最初に入って来た人と知り合いなのかな、でも一緒に入って来なかったから、そうでは無いのかな・・・?
この関係性を想像することが演劇を観る上での一つの楽しみでもある、つまり既に3人組のや団は劇場空間においてかなり主導権を握れるトリオであることは間違いない。
『スナイパー』ではビルの屋上で殺し屋がターゲットを狙っているところに、1人の男がやって来る、どうやらこいつも殺し屋のようだ。「ここは殺し屋たちがよく来るんですよ」なんて言い出す。そこにもう1人やってくる、そうまた殺し屋だ。3人も殺し屋が集まってしまう。外部からの人間がそこにあった状況を破壊していくという演劇的な構造は面白い。
テアトロコントに呼ばれるという事は、笑いのみでなく、どこか演劇的な可能性を秘めているユニットであると思うので、3人というコンビではなくトリオにしか出せないコントを探求して、もっとクオリティの高い作品を観たい。や団ならいけると思う。
男女のペアだとおのずと駆け引きが見所の〈恋〉を設定にしてしまうのが残念に感じた。
男から女への告白は成功するのか、女はどう対処するのかなどは、前回のテアトロコント参加の市民プールが近い設定で創作されていただけに、今回の水素74%は個人的に見飽きた設定という印象が拭い切れない。この実験的な場でもっと勝負を仕掛けても良かったんじゃないか、劇場に来て観ている観客は貪欲であるし、恋愛を超えた男女の新たな関係性にトライしたものが観たかった。身近な日常を使うのは良い、けれど平均点は既に取れる団体であるなら新しい視点を掴まえて新鮮な作品に挑戦してみてもらいたい。
わらふぢなるおである、まず言いたいのはブサイクいじりについて、身体的批評で観客を巻き込むことはどうなのか。つまり「この人はブサイクである」を笑いとして認識させることは危険なんじゃないか。深く踏み込めば差別的な笑いでもある、その先になんらかの批評性があるのであれば、全体を作る上での重要な1つのピースということで納得はいくけれど、観客にブサイクを笑うことに誘導し強いることは技が無く芸には結びつかない。
少し述べた〈なんらかの批評〉というのは例えば、容姿に対しての発言を向けていたブサイクな相手が実は生き別れた兄で、それまで散々罵倒していたが手のひらを返したように態度を変える、ことで〈差別〉を笑いにする、など観客と共犯関係を結び味方にしながらも、後半で裏切る仕掛け、作者の〈ある目的〉を達成するためなら許容範囲だなと思うけれど、今回のは何のために〈ブサイク〉というモチーフを設定に組み込んだのか消化できなかった。
物事に対する批評する眼差しはかなりの切れ味があるので、観客を手のひらで転がすようなコントを作ってほしい。個人的にもっと悪魔になれると思う。
古屋と奥田と玉田と言いなさい! と声を張りたいぐらい台本の力が強かった、古屋と奥田のコントでは、結婚式という晴れ舞台を背景に置くことで、裏にある苦々しい醜い争いの対比となって、2人の会話の輪郭がはっきりと見え成功しているし、男同士の成功譚であると思いきや、どろどろとした羨望と憎しみの劇にはかなりの暴力性が浮き出ていて、火花散らす会話はいつ殴りかかるのだろうと見入った。これからどうなるのかというスリルが混じった観劇は新鮮で良かった。台本に対しては完成度がある反面、そんなに伏線拾わなくても別にいいよ! と思う、観客をコントロールすることで観客の疲労度も進行していくので、息つく箇所がもう少しあれば、もっと気楽にコメディとして関われたと思うけれど、そんなに問題にもならないレベルだと思います。
役者の2人には、また違う顔が観たいと期待してるので次回の参加お待ちしております。
今回は対象をどう批評すれば笑いに繋がるのかを考えさせられた回でした、いかに常識に捉われず「これっておかしいよね」と強い批評性を持ち、どのような方法で伝え笑わせるか。そのおかしな状況を観客に説明することがベターではあるけれど、また違う方法があるような気がして、また次のテアトロコントに足を運ぶことになるわけです。(島十郎)

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