2023年4月28日(金)~4月29日(土)
テアトロコント vol.61 渋谷コントセンター月例公演(2023.4)
主催公演
公演詳細
コントの春風、爽やかじゃないけれど
最高に胸躍った2月・3月のテアトロコントspecialが過ぎ、テアトロコントに春が来た。両公演拝見させていただきました。
金曜のコント2組、サスペンダーズとファイヤーサンダーはとにかく意地悪。「意地悪なことをネタにしないほうがいい。それを笑ったお客さんがその意地悪に加担したような気持ちになってしまうから」。お笑いにはそんな通説があるように思います。だけどこの2組の意地悪は、そんな気持ちも通説もぶっ飛ばす、突き抜けた意地悪です。
サスペンダーズは、意地悪に対してとことん丁寧。人には言えないけどだからといって無自覚ではいられない、ちょうど厄介な大きさの意地悪。それを見つけて描くのが、あまりに上手だなといつも思う。自分だけちょっと良い思いしたい、こうしたら出し抜けちゃうかも。そういう性根の悪さを絶対隠さないサスペンダーズ。そこに向き合う真面目さって実は意地悪さと相反する気もしていて、そんな彼らの不器用さに、悔し泣き笑いさせられます。サスペンダーズのコントで泣いちゃう時、本当にいつも悔しい!だけどやっぱり、犯罪はしたけどちょっとでも美味しく焼肉食べたいみたいな卑しさ、どうせ逮捕されるし最後ドデカハイボール頼んじゃいたいみたいなさもしさを認めてもらうことで、人には元気が湧くのだと思います。ドデカハイボールって言葉史上一番面白かった。ドデカハイボールで泣く日が来ると思わなかった。
もう1組の意地悪、ファイヤーサンダー。彼らにとって意地悪はもはや当たり前のもの。言葉足らずのスポーツ選手を「ネットのおもちゃ確定」と言ってのけたり、「撮り鉄には常識がない」こと前提でコントを進めたり。あと、モノマネ芸人をコントに登場させるのが上手過ぎる。それすら天性の意地悪さゆえに思えてきます。なのにどうして見ている私たちが後ろめたい気持ちにならないのか。崎山さんのストーリー構成力が、あまりに圧倒的だからです。さまざまなコントを拝見する中でも、崎山さんほど完璧にストーリーを構成する方はいないと思う。だから何だかファイヤーサンダーのコントは、フィギュアスケートのショートプログラムを彷彿とさせるのです。意地悪も全部、芸術点の高いジャンプとして決まる。もしコントにも採点表があったらきっと、ファイヤーサンダーの点数はとんでもないことになります。
初日、そんな2組の間にはさまれたカゲヤマ気象台のコント『ゲムゲムの風』。二人してガスマスクをかぶった登場からずっと、あらゆる意味で異質でした。はっきり言って理解は届かない、だけど知りたくなる。必死について行きたくなる。だって何かを言おうとしている、何とか分かってみたくなる。何か、そういう人っていますよね。得体の知れないものに愛着が湧く瞬間。作中でもそんなことが描かれていたし、このユニットの存在そのものが、そのことを気付かせてくれた気がします。見ている最中より終演後のほうがこの作品のことを考えていて、離れたあとのほうが考えちゃうみたいな、何か、本当そういう人っていますよね。こういう人が忘れられなくさせてくる。感情が「笑う」じゃなくて「悩む」で、これってコントなのか?とか色々思ってだけど作った人がコントだと思ったんだからコントなんだよな、ああほらまた考えちゃってる、という帰り道でした。
日付が変わって、土曜のお昼。
Gパンパンダは『雪本』という一平さん演じる一人の人間のお話、4本の連作。連作ってコントのその後が見られるのがとっても嬉しくて、だけどそもそも4本連続でコントしてもらえるライブってほとんどないわけで、一つひとつのコントが繋がっているという楽しさを手放しに享受してはいけないですね。Gパンパンダはもうずっと、一平さんという稀有な個性をどうコントにしていくか、と戦っているのかなと思います。だからコントのパターンは似てる。でもそれでいい。だって一人の人間のお話なんだから。普段のコントを『雪本』という連作にまとめることで、さらにその納得度が高まりました。ついいつも一平さんの激しさや迫真さに目が行ってしまうけれど、そんな一平さんをしっかりコントに仕立てているのは、実は星野さんの演技力、そして細かい台詞のリアリティだと思います。一平さんを面白がり過ぎず、馴染ませ過ぎず、ちょうどコントの中に居させてあげられるそのバランスに、うっとりしました。
最後はゾフィー。コントのファンなら誰しもがもう、「ゾフィーは設定の怪物」であると知っている。そんなゾフィーの一つの答えが、「設定」だけをやり切る超短尺コントだったなんて!何て潔く、そして勇気ある選択なのだろうと思いました。超短尺と通常尺が織り合わさった7本のセットリストそのものがめちゃめちゃ格好良い。ベストライブや33本ライブを拝見出来ておらず惜しいです。そんな怪物のコントたちを見て、あまのじゃくにも私は「もし漫才でやったらどうなるんだろう」だなんて思ってしまいました。あの数々の設定の中で、もし上田さんとサイトウさんがそのまま会話していたら?そんな妄想は傲慢過ぎるかも知れないけれど、でもやっぱり「ゾフィーの漫才」って聞いただけでゾクゾクします。(ごとうはな)
バイト先の店長と試食販売で働く人と憧れの先輩と書家先生と「雪本」の間
今回のテアトロコントにてGパンパンダの披露した「雪本」は特筆すべきコントだった。というより、書かざるを得ない「ヤバイ人間」を目撃してしまったというか。「あの人ヤバいよね、」と冷ややかな距離を取ろうにも、いかに、こちらがバイト先の店長や試食販売で働く人、憧れの先輩、書家先生であろうとしても、その距離を問答無用で詰められてしまう。雪本という人間が迫ってきた。
Gパンパンダの「雪本」は4本のコントで構成される。雪本はあまりにも純粋で無知で素直すぎる人間だ。大学生の雪本は仕事と私欲を天秤に賭ける大人の論理を知らず、バイトの給料と同等の価値を持つウインナーとの出会いに打ちひしがれ、一万五千円を奢ることの出来ない自身の器量の小ささに絶望する。
書道はどう考えたってちゃんと書いた方がいいと思っている。雪本は4本のコントの中で大人と子どもの間をぎこちなく揺らぎ続ける。
そんな雪本を演じるボケの一平の演技、もはや『雪本であった』一平の舞台でのあり様は、凄まじかった。このコントを見る我々も雪本と同じように大人と子どもの間を揺らぎ続ける一人であって、でも、バイト先の店長や試食販売で働く大人や憧れの先輩や書家先生であるために、頑なにその振り子を大人の側に必死に留めようとしている。しかし、私がその必死に留めてきた振り子の手を思わず緩めてしまう程に、台本を突き抜けて、鑑賞者である自身に侵入してくる圧力が今公演にて頭を抜けていた。星野演じる大人たちの存在もまた雪本を加速させ、その場は狂気と、悲しみと、馬鹿馬鹿しさと、愛おしさと、全てが混ざり合った「どうしようもなさ」が充満していた。
コントはしばしばそのストーリーの中に、道化的存在あるいは、鑑賞者の代弁者であったり、台本の中で笑いを生み出す為の役割が明確に設定され、笑いの装置として存在させられるわけだが、時にその台本の存在が前景化しすぎてしまう場合も往々にしてあるように感じる。しかし今回の雪本=一平の圧力、熱量というのは、そうした台本の構造や理屈を押し分けてくる。こちらは目の前に立ち尽くすその存在に注視せざるを得なくなる。目を引かれるだけでなく、その引かれた先に鑑賞者であるはずの自分自身をも見ているようで、コントキャラとか、ただの狂人として彼を一蹴することが出来ない。演じている一平も雪本を演じながら自己に内在する「雪本」を開示していくようである。こんなにもどうしようもない人間に、「生の熱量」のようなものすら感じてしまっている。
4本のコント1つ1つを振り返ってみると、その内容は「見栄と本音の葛藤」であったり、コントとしてそこまで奇特なシチュエーションではない。だがそのセリフを超えて人間をそこに存在させることによって、ただそれだけで、ただならない「コント」という状況はまた一つ作り出せるのである。
「雪本」を見ているその時、舞台という境界は溶け、雪本がどうしようもなく生きていた。(HT)
何を基準に「これは笑っていいのか?」と判断するのか
サスペンダーズの1本目『しゃっくり』は職員室で教師(依藤)がしゃっくりをしている同僚(古川)に「クラスの女子生徒の体操着が盗まれた」と話し、その話をしてから同僚のしゃっくりが止まるというもの。2本目の『焼肉屋』は焼肉を食べている客(古川)のもとに刑事(依藤)が来て空き巣で現行犯逮捕しようとするが、犯人である客は焼肉が焦げるのがもったいないと思い、美味しく焼いて食べようとするコントである。
サスペンダーズは古川の焦った姿を様々なバリエーションで見せることが特徴のコント師で、この2本も古川がなにか悪いことをしたうえで、無茶な言い訳をしながら焦った姿を見せる古川が滑稽に映るコントである。ただどちらも「悪いことをした人の焦りを見せるコント」なのに、2本目の『焼肉屋』はコメディとして受け取ることができたが、1本目の『しゃっくり』は「これは笑ってもいいのか?」という思いになった。
「体操着を盗む」ことや「それがバレて焦る」という一連の流れはコメディとしてとてもベタなものとして昔から存在するし、それを「しゃっくり」という古典的なギミックではあるが、システムとしては新しい見せ方になる。ただ古川の「女子生徒の体操着を盗んだことがしゃっくりというギミックによってバレてしまい焦っていく姿」というのが、その焦り演技が巧妙すぎることもあって変な生々しさを覚えてしまう。間違いなく舞台上で行われていることは「リアリティ」であって「リアル」ではないのだが、「リアル寄りのリアリティ」を見せられると「これは果たして笑っていいものだろうか?」という思いが過ってしまう。これはもちろん、教育従事者による生徒へのわいせつ行為のニュースを近年よく見かけるようになったことも起因する。
そのうえで2本目の『焼肉屋』のコントでは「リアル」ではなく「リアリティ」として消化して笑っている自分がいた。「体操着を盗む」はリアル、「空き巣被害」はリアリティとして考えている気付きがあった。どちらも犯罪としてはベタ中のベタなのに、そこでの捉え方の差が自分のなかで出てきていることがちょっと怖くなった。(カンノアキオ)
記憶の時間軸。
《1》【サスペンダーズ】<コント師枠>男性2人組/計4作品/★★★★☆/
男「第2ボタン。自分で捨てました?」。男子高生「……なんですか?」男「ボタンを貰われた人間だと思われたくて、第2ボタン捨てました?」卒業式の後、突然男に話しかけられ、冷静に何度も問い詰められる。困惑していると、実は大学の心理学教授をしていて、君の母親の彼氏でつい話しかけてしまったことを告白し、さらに詰め寄る。男「君がモテないのが、この世界のバグとでも思ってるのかもしれない。バグなんかじゃない。君の頭の中のパラレルワールドではモテてる自分がいて、そこに合わせようとしたんだ!」。男子高生「……俺、捨てたひょうたん池に捨てた第2ボタン、取りに行ってくる!」。とモテない自己認識を持ち脱皮成長する演目『第2ボタン』。「テアトロコントVol.53」に続き2度目の拝見だが、今回も全体的に知性と笑いのバランスが気持ちよく、後で早大卒と知り納得、ガクヅケの木田さんやぐんぴぃさんとの通称“キモシェアハウス”で暮らしていたという経緯も、なんとなくわかりみがある。紫外線浴びてなさそうな雰囲気、声の出し方、人畜無害さ、少年的な幼い変態性などなどなど。ネタの出発地点が、「驚いたことでしゃっくりが止まり、下着泥棒を疑われる」ことや「定食屋でお巡りさんに逮捕される直前であってもご飯はおいしいし、お巡りさんもお腹すくし、おいしくするために協力しあう」など、生活に身近で、どちらかといえば「悪いことが起きた時のおかしみ」に焦点が当たっているのが、親近感を持つ。本当は演劇人チームがこれくらいの知性と笑いのバランスだと、楽しみやすくて最高なのに、とあくまで個人的趣向を呟く。
《2》【カゲヤマ気象台のコント】出演者:男女3名/『ゲムゲムの風』計1作品/★★☆☆☆/
休憩後、いつもの出囃子が高鳴る時には、すでに出演者が舞台上に現れていて、見つめあう出演者の中、映像に映しだされる演目テロップ。このつかみの演出は、いつものテアトロコントの流れをうまく利用した裏切りで、最高にかっこよくて痺れた。男「さあここがおまえさんの部屋だ。それで同時におれの部屋でもあるんだ。おまえは居候だからな。」”ゲムゲム”と呼ばれる謎の生物ガスによる流行病が蔓延した場所に、ガスマスクなしで倒れ生きていた男を拾い、共に暮らした一週間。拾われた男は愛嬌もなく酒乱で、蹴とばしても土嚢(のう)のように重く、転ぶと振動で部屋中の物が散乱する。その異常な重さを生かしてサーカスに売り飛ばすも、不在の寂しさが残る演目『ゲムゲムの風』。観劇中は、前・後コント師のあまりに華麗なポップさのせいか、ぬめっとした重苦しいリズムがしんどくて、早く上演が終わってくれる事を静かに待ってしまっていたが、後日Twitterで公開された戯曲を読んでみると思った以上に読みやすく、上演時との印象が随分違ったので、戯曲を公開して頂けるのは後日文章を書く係としては大きな手掛かりになり大変有難い。”ゲムゲム”の存在が流行病や放射性物質の比喩で、それに苦しむ日常を描いているのは容易に想像できるが、倒れていた男との日々は、二次的災難(風評被害・インフォデミック・災害賠償費など)に翻弄されるメタファーなのかなどと考えてみたが、自分にはうまく掴み切れなかった。
《3》【ファイヤーサンダー】<コント師枠>男性2人組/計4作品/★★★★☆/
母「これ、インスタントとか入れといたから東京まで持ってき。」息子「ありがとう!」母「あとお母さん……漫才のネタ考えましたー!(メモ帳を渡す)」息子「いらんて!」。と実家に帰り漫才ネタをもらうたびM1を勝ち抜くようになり、オカンのネタを求めせがむように実家に帰る演目『芸人のオカン』。「テアトロコントVo.40、56」に続く3度目の拝見。何度も出場するコント師は同じネタを使いまわすことも多いが、自分の拝見した回は全て未見ネタ。『芸人のオカン』は、カフェ隣席で、自分のファンが語る次週作ネタをパクる『漫画家』のコントと構造こそ似ているが、他人ではなく母親のうっとおしさと、妙に優秀なのが、ありそうな感じがして、笑いやすかった。
【総評】両隣の席とも、ちょっとしたことでもよく笑うお客さんで、そういえば劇場ってこんな感じだったな、と思考リズムが乱される若干のうっとおしさで、日常が戻ってきてくれたことを実感した。今回も沢山の学びを頂いた運営・出演者の皆様に心から感謝致します。(モリタユウイチ)
本当にびっくりした時のリアクション
とある学校の職員室。古川先生がテストの採点をしながら、しゃっくりをしている。そのしゃっくりを止めようと、依藤先生が忍び寄り、ワッと驚かせるが上手くいかない。この日のオープニングとなったサスペンダーズのコントは、頭からガツンと掴むのではなく、どこにでもありそうな日常の一コマを切り取った、やや静かな幕開けとなりました。ところが、その直後、依藤先生がある問題を吐露すると、話は一気に加速します。
「うちのクラスの女子の体操着が盗まれた」「あ~、そうなんですね…」と、やや目を泳がせながら相槌を打つ古川先生。文字で表現するのが非常に難しいのですが、この最初の「あ~」の言い方が絶妙で、古川先生の心理を見事に物語っています。これからどう対処すべきか悩みながら独り言を繰り返す依藤先生と距離を置くかのように黙々と採点を続ける古川先生。長い沈黙が続いていることを不審に思った依藤先生がおもむろに尋ねる。「古川先生じゃないですよね?」。食い気味に応える古川先生「僕じゃないですね…」。これです、人が本当に驚き、動揺してる時のリアクションは。役者を生業としている人たちは是非、古川さんの演技を学ぶべし。そして、この過不足のないリアルな表情と言葉のトーン、絶妙な間はコントにおいても非常に重要であり、笑いを増幅させる高等テクニックであるということを全てのコント師にも学んでほしいと思うのです。
2本目のコントで古川さんはさらに深い、人間の業を表現しました。焼肉屋で肉を焼いている古川さんのもとに依藤刑事がやって来る。警察手帳を見せ、空き巣の容疑者である古川さんに罪状を述べ、確認を促す。古川さんは内心びっくりしているものの、自分が犯した罪よりも、注文した高級肉の焼け具合の方が気になり、トングで肉を引っ繰り返してしまう。そんなことある?コントだからでしょ?と思うなかれ。人は本当にびっくりすると冷静な判断ができなくなり、目の前のことを優先してしまうということがままあるのです。よ~く思い出してください。あなたにもそんな経験があるはずです。これは演技力もさることながら、人間の得体の知れなさを表現した脚本の勝利でもあります。
よくリアルなコントの代名詞として東京03の名が挙げられますが、演技のリアルさという観点ではサスペンダーズの方が間違いなく上です。「東京のコント師」を自負する彼らは03に追随する実力派であり、未来の姿がダブります。サスペンダーズが高い演技力を武器にドラマ、CM、全国ツアーと日本中を席巻する日までのカウントダウンは始まっています。(市川幸宏)