渋谷コントセンター

文字サイズ

2017年1月27日(金)~1月28日(土)

テアトロコント vol.15 渋谷コントセンター月例公演(2017.1)

主催公演

公演詳細

さらば青春の光が見せる“ないない”の世界
『遊園地』は離婚して30年、毎月必ず同じ遊園地に連れ出して思い出話をする森田演じる60代の親父と東口演じる35歳の息子の様を描く。親父は意気揚々と、息子に小遣い千円を渡して「お母さんには内緒な」のような“ねじれた状態でのあるある”を繰り出し続ける。そのねじれが「離婚後すぐ再婚して子供が出来、また離婚してバツ2となり、その子供とも毎月会っている」とカミングアウトして転調が始まる。「隔週で2人の息子と会えてバランスは取れている」や「俺と同じ思いを抱いている人がもう一人おるの?」など、もうとっくに“ないない”になっても、その状態があたかも“あるある”に見せる2人が滑稽だ。最終的には息子2人をドラッグに例えて「3人で会ってちゃんぽんしたい」「鼻から吸引したい」と話が破綻して大団円となった。
『ファンタジー』は日々に退屈する森田演じる高校生の前に、壁をすり抜けて「僕は君だよ」と東口演じる男が現れてSF的な物語が始まる。と思いきや、「僕は君だよ」の説明だけでは足りないので高校生が「君は未来の僕なの?」「君は僕の分身なの?」などと聞くが全部否定される。男は「僕は君だよ」の一辺倒である。高校生は「前例がなくて困る」と言う。“SFあるある”が通用しないのだ。高「壁を通り抜けてきた事は受け入れている。僕も物語を始めたい。でも、君が何か分からない」男「だから僕は君なんだよ」高「だからそれ何やねん!」と全然進まない。何にも進まない。高「パラレルワールドから来たの?」男「パラレル、、、ワールド?」と、「僕は君だよ」と言う男と知識の差が出てしまっている。男が手も触れずに窓ガラスを割る力を見せるが、「その能力的なのは受け入れてんねん」とディスコミュニケーションが続く。2人は結局何も分かり合えず、話も進まず普通に別れる事となった。
『遊園地』は、“ないない”に近いが1%の確率であるかもしれない、そんなねじれた設定を基本として、どう展開していくかを私たちに見せてくれた。丁寧に“ねじれ状態のあるある”を描き、100%“ないない”に転じてからは不謹慎とスピード感が相俟って話が破綻していった。
それに対し『ファンタジー』は現実には絶対に起こらない、100%の“ないない”から始まる。最初から破綻している。だが、SFの感覚的な所で誰もが共感出来る“あるある”を持ち込んで物語を語るフリをした。そこを裏切って、結果“ないない”になる様を見せてくれた。何でこんなものを作れるんだって思った。最強だった。(菅野明男)

ギャグにはエロがよく似合う
特異な設定に置かれた人間の感情を浮かび上がらせた「ナカゴー」、スピーディーな展開ならではのアイデアを5作品も畳み掛けた「ななまがり」、 懐古世界を独特なタッチで描くミズタニー、全組楽しめたが、一人芸人で優しく演じきった「ルシファー吉岡」を一番楽しんだ。 特に千葉で綿花ファームを営みパンティーを作る変態オジサンが、社会科見学の子供達に、 パンティー作りの素晴らしさを熱弁するコント「千葉綿花ファーム」が好きだ。 ワインのソムリエがブドウ畑の土から見直し上質なロマネコンティーを作るように、 千葉の変態オジサンは綿花畑の土から見直し上質なロマネパンティーを作っている。 女子生徒がドン引きしても、途中、先生に呼ばれても、 目の色が輝いた一部の男の子に夢を与えるためと、最後までオジサンの熱は止まらなかった。 性は日常ではコントロールしなければ悪として断罪される。 そうしなければ時に暴力になってしまうからだ。 しかし同時に、人間生活になくてはならない大切なものである。 現代、特に都会では極めて過度に矯正し続けた結果、臨界点を越えてしまった歪みや圧力が、 たまに事件となって溢れ出てしまう悲しい現実を、我々は知っている。 この作品の綿畑のオジサンのように、誰も傷つけず、性欲に一直線に突き進む姿をみていると、 笑いながらもどこかホッとさせられるし、羨ましくもある。 それはルシファー吉岡の、安定感のある演技やたたずまいと、ネジが壊れている人独特の、 孤独や、やさしい目線のせいも有るに違いない。やはり一人は強い。 『この世で一番強い人間とは、孤独で、ただ一人で立つ者なのだ。』H・イプセン。 前回R1グランプリにファイナルまで残り、今回も四回戦まで勝ち進んでいるというルシファー吉岡に今後も注目していきたい。 最後のアフタートークで、「芸人は練習嫌いで、演劇人は練習好き、」というエピソードがあった。 演劇人の場合、俳優は、練習を重ねることで不安を埋めようとするし、演出家も、練習を重ねた先にやっと面白さを信じられる瞬間があるからだろう。 もし芸人の練習嫌いが本当だとすれば、どの瞬間で自分たちの面白さを信じているのだろう。ネタ作りをしていて、アッと思いついた瞬間なのか、 ネタも何もできて無い時からなのか、まるで信じないまま舞台にあがり、観客の反応で初めて確認するのか。 そんな芸人のメンタリティを想像しながら、文化村通りをいそいそと帰った。 前回から二回目となる拝見だが、オールディーズな音と電子音が混ざるBGMや、フカフカの椅子が、しっとり見れてとても好きだ。(モリタユウイチ)

“ズレ”に満ち満ちた世界を生きるために
「納得できない」「自分の思いが通じない」「世の中、おかしい」。生きていると、そんな思いに駆られることが少なからずありますよね。そんな時、どう対処したらよいのでしょう? 謎を解くカギが、ななまがりのコントの中にありました。
「ラブストーリー」と題された作品。知人が病院に担ぎ込まれ、動揺する男性A。そこに男性Bが現れ、客席に向かって語り掛けます。「自分は全く関係のない男だ」と。BはAに対話を試みようとしますが、全くちぐはぐで嚙み合いません。そりゃそうでしょう。だって、Aの目に、自分に無関係なBの姿は全く入っていないから。コントの約束事を覆したシュールな作品。目の付け所が面白い。と思って観ていた時に気づきました。実はコレが世の真実。人は自分に関心のないことには目を向けないんですね。ましてや、逼迫した状況であれば尚更のこと。仮に、一方が思いをぶつけても、他方にその存在が見えなければ、あるいは、見えていても見えないフリをしていたら、二者は全く交わらないのです。人は同じ世界に生きていても、見ている景色が全然違う。それを自覚すべきだと、この作品は暗示しています。
さらに、ななまがりは、時間という概念の危うさにも切り込みました。「体感時間」。一つ屋根の下に暮らす老人とその孫。二人は時の流れが全く違う。老人が眠ろうとすると、既に朝。朝食を食べようとすると、孫は夕食を食べ終わる。訝しがりながらも、のんびりと過ごす老人に対し、孫はせかせかと生き急ぐ。時間がゆっくりと流れているせいか、老人はまるで死ぬのを忘れてしまったかのよう。すると、そこに孫の孫、すなわち、玄孫が現れる。こうなるともう、SFの世界。でも、現実味がゼロかと言うと、そうでもない気がするのです。長寿が進む一方で、今、若くしての過労死も増えているから。
ゾウとネズミの体感時間が異なるように、生物によって時間の感覚はまちまちです。人も年齢を重ねると、時間の感覚が変わってくるのは、誰しも経験済みですよね。であれば、人間も一人一人、体感時間が違っていて当然。時間の感覚がズレている二人は価値観にも大きな隔たりがあり、まともな会話は成立しません。そんな事態に直面したら…。「何故なんだ?」と声を荒げる人が多いかもしれません。でも、老人は相手のズレを不思議に思いながらも、正そうとは思わず、達観した境地で見つめ、受け入れます。世界はズレに満ちている。それは怒りの理由にもなり得ますが、笑いの源泉でもあるのです。視点を変えて世界と向き合う。ななまがりは、不条理な現実を逞しく生きるヒントを見事に提示してくれました。コントの本来あるべき姿で。(市川幸宏)

人替えられる・人替えられない
【1】ナカゴー「ひざ」他1作品。膝にできた人面瘡の話。膝に人面瘡ができた者が「人面瘡だよね」と相手に聞く「心細さ」と、膝に人面瘡ができていない者が「大丈夫だよ」と相手に言う「気遣い」、その応酬。人面瘡が消えた後に「逆の立場だったら」「言って欲しいと思う」というやりとりがある。『人は知っている者の立場に立たされている間はつねに十分に知っている(ジャック・ラカン)』のにも関わらず、本当の事を言えない、『人間は長く「本当のもの」には耐えられないから幻想=フィクションを作り出す(斎藤環)』というラカン派に置ける人間の揺れが描かれた作品だった。
【2】さらば青春の光「ファンタジー」他2作品。平凡な日常を送っていた高校生の元に、壁をすり抜けて未来人がやって来て「僕は君だよ」という。クローンでも守護霊でも分身でもないその前列のない存在は「僕は君だよ」と繰り返す。それへの返答「ここをちゃんと説明してからや」「ここグッチャグチャ」の「ここ」とは『崇高な対象とは、近すぎるとアプローチできないような対象である。接近しすぎると、それは崇高な特徴を失い、平凡で陳腐な対象になってしまう。それは空間と時間の間でのみ、媒介的な状態でのみ、存続することができ、ある一定の角度から見ると少しだけ見える(スラヴォイ・ジジェク)』ような崇高な対象であると約束される「ファンタジーの設定」として必要な距離感であり、その『ファンタジーの反駁(同)』自体が議題とされていた。
【3】ミズタニー「少太陽」。藤子先生のような2人組のマンガ家を目指す高校生の話。随所で見られるマンガ的(漫符的)表現は『「圧倒的な敷居の低さ」という他にない武器(弘兼憲史)』をもたらした。マンガを実演するという設定を持ち込んだ場面では『脳の中をダイレクトに出したいんです。編集で整理して"マンガ"に近付けて「うまく描けました」じゃなくて、もっと直接的に紙の上に出したいんですよ』という天久聖一の志を継いだ思考の未整理さを舞台上に出していた。最後の相撲はそれの最たるもので「うまく描けました」の対局にあった。
【4】ザ・ギース「進路相談ミュージカル」他3作品。当日パンフレットにある『テアトロコントに相応しいと勝手に思ったコントを持ってきましたので(ザ・ギース)』という言葉から察するに「進路相談ミュージカル」が一番相応しいと考えたんだろうなと思った。スティーヴン・ミズンの提唱する『Hmmmmm(ホリスティック・マルチ・モーダル・マニピュレイティヴ・ミュージカル)』という『音楽と言語に分かれる前の先駆体』について考えることによって逆照射される「音楽・言語」のように、「ミュージカル」をコントと演劇のボーダーに持ち込んだ(それも半端に上手い)ことによって、歌ネタ、ミュージカルそれ自体、各方面への批評性が発揮されていた。
【総評】「お笑いは人替えられない」という発言があった。その通りな気がする。ネタ番組で外部から人を招くようなコントには確かに違和感がある。圧倒的に不利じゃないのか。人が固定される事がどうしたら利点となるのか。それかもういっそ人増やしてもいいのでは。(小高大幸)

コントから/演劇から逸脱した笑い
1組目のナカゴーは膝にできたしゃべる人面瘡と座った人間がフェラチオをされることになる伝説の椅子という奇怪な存在によって物語が繰り広げられる『ひざ』と『レジェンド・オブ・チェアー』の2本を再演した。突飛な設定が目を引くが、未知のものに接した時の驚きと困惑が反映された戯画的で滑稽な人間の姿が大きな笑いを起こしていた。また、前者ではナカゴーの作・演出の鎌田順也が前者では膝の人面瘡を消す役で、後者では性器に見立てた風船を膨らます役として黒子で登場していたが、その登場にもそれを許すだけの物語が持つ「強度」を感じられた。徹底的にふざけているようで、徹底的に人間的であるナカゴーの舞台の登場人物たちはやはり魅力的だ。
2組目のさらば青春の光は、2本目の『ファンタジー』の、少年に対して「僕は君だよ」という言葉を繰り返す、タイムスリップしてきた感じがある男という「見たことない設定」が特に引きつけられた。『遊園地』の離婚した妻との子供が大人になっても月に一度会いに来る父親、そして『SMクラブ』の自殺した息子が前日SMクラブに来ていたことを知り、その担当の風俗嬢を責めたてる父親の2本はともに一般的な親子関係を逸脱したゆがんだ関係性を描く、秀逸なコントだった。特に『SMクラブ』は笑いとともに父親が持つ狂気的な怖さがあり、このまま演劇として見ても優れた作品ではないかと感じた。
3組目のミズタニーは先日解散した劇団の野鳩の主催であった水谷圭一がテアトロコントの要請によって作ったユニットだ。その舞台で行われる過度に漫画的、2次元的ともいえる表現手法は非常に新鮮で刺激的なものだった。緻密に練られた舞台はその緻密さが故にばかばかしく、その奇妙さが「リアル」に思えるという不思議な反転も感じた。田舎の漫画家を目指す少年の二人組とその二人が憧れる、実は漫画家を目指す美少女二人組という物語の構造を置いてけぼりにして、登場人物たちがどんどん脇にそれていき、無意味を重ねていくさまも面白かった。「繰り返し」は笑いの手法としてよく見るものだが、それがある意味笑いを必要としない、演劇的ともいえる純粋な繰り返しとして行われていたのも興味深かった。ミズタニーとしての活動は現在予定されていないとのことだったが、ぜひテアトロコントによって生まれたてのミズタニーを育てていってほしいと思う。
4組目のザ・ギースは「実の」相方ではなくマジシャンだった高佐が最後にはマジックの才能を披露する『相方』に始まり、ミュージカル俳優を目指す高校生の進路相談がいつの間にか偏見をぶちまけるミュージカルになってしまう『進路相談ミュージカル』に終わる、唯一無二でありながらまとまりのある4本だった。マジックとミュージカルで、テアトロコントの舞台では今まで見たことがない歓声に包まれていたのが印象に残った。先の3組とは全く違うアプローチで、笑いの幅の広さを見せられた感じがした。一本一本のコントもザ・ギースにしか生み出せないようなひねりのある設定と展開でとてもよかった。
今回は4組とも自らの個性を存分に発揮した、爆発力のある回となった。演劇/コントという枠組みからある意味逸脱したような、それぞれに固有の笑いを堪能することができた。今回は客席も満員で、初めて来た人にも次回を期待させるすばらしい舞台になっていたと思う。今まででも随一の出来だと思われる今回の15回目を一つの節目として、テアトロコントのまた新たな展開を楽しみにしたい。(柏木健太郎)

TOP