渋谷らくご

渋谷らくごプレビュー&レビュー

2019年 9月13日(金)~17日(火)

開場=開演30分前 / *浪曲 **講談 / 出演者は予告なく変わることがあります。

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9月14日(土)17:00~19:00  橘家文吾 瀧川鯉八 神田鯉栄** 古今亭文菊

「渋谷らくご」若手競演!古今亭文菊を聴こう

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プレビュー

 芸歴でいえば、20年未満の「若手」といわれる人たちの集まる公演。トリは早くも老境の域にまで到達(?)している、古今亭文菊師匠です。もっと世の中で騒がれていい存在。
 日本一男前な講談師 神田鯉栄先生も登場、二つ目に昇進してまもなく1年の文吾さん、そして渋谷らくごの象徴である瀧川鯉八さんと、バラエティに富んだ組み合わせ。初心者にもオススメしたい楽しみな番組です。


▽橘家文吾 たちばなや ぶんご
21歳で三代目橘家文蔵師匠に入門、芸歴6年目、2018年11月二つ目昇進。本名が「中西翼」とカッコいい。先日、お母様に落語用の座布団をつくってもらう。この夏は手ぬぐいからトートバッグを作った。

▽瀧川鯉八 たきがわ こいはち
24歳で入門、芸歴13年目、2010年二つ目昇進。2020年5月に真打に昇進することが決定。この夏は、小泉今日子さんとツーショットを撮った。指原莉乃さんが出演している「からだすこやか茶w」のCM、鯉八さんがナレーションをしている。

▽神田鯉栄 かんだ りえい
平成13年入門、芸歴18年目、2016年5月真打ち昇進。講談師になる前までは、旅行会社の添乗員をやっていた。ちくわの磯辺揚げが好き。糖質ダイエットをしていて、ブログに朝食の写真をアップしていた。朝食では積極的にヨーグルトを食べる。

▽古今亭文菊 ここんてい ぶんぎく
23歳で入門、芸歴17年目、2012年9月真打昇進。私服がおしゃれで、楽屋に入るとまず手を洗う。前座さんからスタッフにまで頭を下げて挨拶をする。まつげが長い。最近ダイエットに挑戦中。大学では漕艇部に所属、熱中していた。

レビュー

文:森野照葉Twitter:@MORINO7851992 サウナと筋トレとキュウリを楽しんだ9月

2019.9.14(土)17-19「渋谷らくご」
橘家文吾(たちばなや ぶんご)-締め込み
瀧川鯉八(たきがわ こいはち)-ぷかぷか
神田鯉栄(かんだ りえい)-清水次郎長伝〜羽黒の勘六〜
古今亭文菊(ここんてい ぶんぎく)-野ざらし

「落語の加減乗除」


 +-×÷
 落語をまったく知らない人や、落語を一度しか聞いたことが無いという人は、総じて落語に対して苦手意識を持っていて、そういう人たちから「落語は難しい」とか「落語は専門用語が多くてわからない!」と言う言葉を私はよく耳にする。
その言葉を聞くたびに、私は算数が苦手だったころの自分を思いだす。計算ミスをすれば周囲に笑われ、「なんでこんな簡単な問題が解けないの?」と言われてますます算数が嫌いになっていく。かけ算やわり算が入ってくるとますます混乱して、最終的に「算数なんて何の役にも立たない」と言って算数を熱心に勉強することを止める。
だが、わからないままでいるのは悔しかった。わからないなりに授業を聞きつづけていると、ある日とつぜん、問題を解いているときになんとなく式の計算方法がわかってきた。それまでわからなかった概念や言葉の意味がわかってきて、みるみるうちに算数の楽しさにハマっていった。問題を解くための着想に身震いするほど興奮するようになった。あいかわらず点数は悪かったが確実に一桁をこえていった。私はすっかり『問題を解く喜び』を知り、テストで満点を取った日には、嬉しくてたまらなかった。
落語を聞くことも、算数を学ぶことと同じだと私は思う。わからなかった言葉がわかるようになる。難しい問題を解くようにして、難しい話が容易に理解できるようになる。難しくて理解できないからといって、遠ざけてしまうのは勿体ない。最初からすべてを理解することは、誰にもできないのだ。落語も算数も、繰り返し聞くことで面白さを発見し、のめり込んでいくものだと私は思う。自分にとっての『わからない』を『わかる』に変えるには、何度もそういうプロセスを繰り返していくことが必要ではないだろうか。
数学者の岡潔は、『数学は情緒である』と言っている。私は『落語は情緒である』と言う。落語や数学は何の役にも立たないようにみえて、日本人の情緒を大切にしている文化と学問だと私は思う。では情緒とは何か、それは落語を聞けば自ずと身に付いてくるものである。
今宵はそんなことを思わせてくれる一夜になった。落語が初めての人にとって、算数を初めて習う日と同じような、とても素敵な回になった。
では、そんな落語の加減乗除について語ることにしよう。

橘家文吾 締め込み

  • 橘家文吾さん

開口一番は、若くて威勢のいい兄ちゃんのような見た目の文吾さん。目、耳、鼻、口、手のすべてを使って全身で落語をしている。特に手の動きが凄い。『絹の靴下』を歌う夏木マリ並みのフィンガーアクションである。思わず「抱いて!獣のように!」と言いたくなる。 冗談はさておき、数学には『足し算』があり、『寄せ算』とも呼ばれている。何もないところに付け加える、何かを寄せ合うことから『寄せ算』と呼ばれている。まさしく、文吾さんの語りには観客をぐっとひきつけて、楽しさを寄せ集めて共有しようという『寄せの姿勢』がある。文吾さんは落語の楽しみかたを伝えたあとで、みじかい小噺から某師匠との海の思い出を語り、場を盛り上げていく。文吾さんは客席に寄り添っている。口に力と書いて加という意味になったかどうかはわからないが、文吾さんの語りには口を含めた五つの感覚器官が、会場の雰囲気を作り上げるために全力で動いていた。
寄せ算の結果は『和』である。文吾さんの語りによって会場の雰囲気は和み、全員が落語を楽しもうという気持ちになった。寄席には前座、二ツ目が最初の方に出演して和を生み出す。文吾さんは見事に観客を寄せ、和を生み出したのである。
観客の懐を取り込むという験を担いで、泥棒がでてくる『締め込み』という一席は、夫婦の留守に泥棒に入った男によって、夫婦の間に争いが起こるというお話である。
夫婦喧嘩となり、過去の思い出を事細かに機関銃のごとく言い放つ女将さんの勢いが凄まじい。まるで海外のカップルの口喧嘩を見ているかのようである。私は映画『The Break-Up』のジェニファー・アニストンを思い出した。
文吾さんの汗だくの語りの勢いに、会場はグッと飲み込まれ、女将さんが全てを語り終えて夫に問うたときには拍手喝采。身振り手振り目振りを混ぜた圧巻の畳み掛ける勢いと語りに会場全体が熱気に包まれた。『夫+妻=仲良し』という式が、泥棒Xが加わったことによって『夫+妻+X=夫婦喧嘩』になっていく。些細な勘違いが発端なのだが、やがてXの正体が夫婦に判明すると、Xである泥棒は責められるどころか、むしろ夫婦の関係に取り込まれてしまう。『夫+妻+泥棒=仲直り+仲良し』という謎の式が生まれる。落語は数学のように、単純な式にはならないようだ。

瀧川鯉八 ぷかぷか

  • 瀧川鯉八さん

 第一声の『Chao』はイタリア語の挨拶。出囃子は『やぎさんゆうびん』という曲で、作詞は『ぞうさん』や『一年生になったら』で有名なまどみちお先生。作曲は『新・祝典行進曲』で有名な團 伊玖磨先生。白やぎさんと黒やぎさんは互いに手紙を出し合うのだが、どちらも手紙を食べてしまって、手紙の用事が分からないという曲である。
 一つの手紙を相手に出しても、相手がそれを食べて無にしてしまう。ここには『寄せ算引き算』がある。相手にプラスのことをしても、相手がマイナスにして、結局元通りのゼロになってしまう関係性が、出囃子にはあるように思えた。
 鯉八さんはマクラで想像させる力について語った。数学には虚数というものがあり、これは『i』で表現され、『二乗するとマイナスになる数字』である。実際には存在しない数字だから、想像を意味する『imaginary』の頭文字を取っている。実際には存在しないけれど、確かに想像し景色として見える落語は、二乗するとどうなるのだろうか。
続いて鯉八さんがマクラで語ったのは、宮崎駿監督作品の『風立ちぬ』のある場面。ここで、鯉八さんが強く語った思いには、『巨大なマイナスの数字』に抗おうとする強い意志があるように思えた。様々な人が色んなことに意見を言えるようになった時代において、あまりにも大きいマイナスの声があることを認めながら、それでも、それらには決して引けない思いがあることを鯉八さんは語る。私はその語りに胸を打たれた。
『1-100=-99』のような現状に、『1-100=1』だという鯉八さんの強い思いを私は感じた。1を信じられずに-100に屈してしまってはいけないのだと言っているように思えた。もしも-100がやってきたら、それを+1000で900にしてしまうような鯉八さんの意志が、ここにはあるように思えた。
 引き算の結果は『差』である。あるモノとあるモノのへだたりや、ひらきを認めること。鯉八さんの『ぷかぷか』には、自らの才能と世間との『差』に翻弄される一人の男が登場する。口癖のように「なんかいいことないかな~」と歌う男、まんたろう。彼は真実おじさんに『大人っちゅーもの』を教えられる。やがてまんたろうの類稀なる才能は見出され、一気にトップスターへと駆け上がる。何かいいことを望みつづけてきたまんたろうは、自らの才能を過信して驕り、恋人のヨーコの言葉にも耳を傾けない。ある日突如としてライバルが現れ、トップスターの座から転げ落ちるまんたろう。世間と自分との『差』を上手くつかむことができず、失意のどん底に落ちたまんたろうは、再び立ち上がることができるのか。と、思いきや!という衝撃のラストも含めて、鯉八さんのイマジネーションが炸裂する一席である。
 私は滝の上でヨーコにまんたろうが抱きかかえられる場面で感動した。ひょんなことから才能を見出され、トップスターとなり、束の間の栄華を味わいながら、やがて新しい才能によって淘汰されるも、自分を見捨てずに傍にいた、愛する者の言葉によって、再び自らの才能を開花させていったまんたろうの最期に、涙が零れるのだが、そんなまんたろうが死の間際に放つ言葉で笑いに包まれて、物語は想像もしなかった地点に着地する。ぷかぷかと浮き沈みする想像は、誰にも引けるものではない。何を信じて生きていくか、何が『差』であり、何が『引き算』であるかを教えてくれる素晴らしい一席だった。

 神田鯉栄 清水次郎長伝~羽黒の勘六~

  • 神田鯉栄先生

 抑えきれず滲み出る『極道の妻』の雰囲気が惹き付けてしまうのか、マクラではタクシーの運転手との会話や、新幹線の中で出会ったヤの字の人たちとの思い出を語る鯉栄先生。キリっとした眼。威勢のいい巻き舌と立て板に水の語りに、心がスカッとする爽快な魅力のある女流講談師である。車で言えばランボルギーニのような闘牛の勇ましさを感じる。
男社会の芸の世界においても、男勝りな勢いと風貌で駆け抜けてきた鯉栄先生の芸は、磨きあげられ、場数によって積み上げられた男の義理と人情が詰まった骨太の芸である。
『羽黒の勘六』は二代目神田山陽先生が清水次郎長伝の中で最も好きな噺だそうで、神田愛山先生のブログには次郎長の貫禄が出た良い話だと書かれている。
自らを殺しにきた勘六に対して、次郎長親分は殺そうとはせず、勘六の心意気を受け止めて仲間にならないかと提案する。次郎長親分の懐の深さに痺れる話である。
雨降れば地固まるという言葉にもあるように、清水次郎長という人はたとえ自分を殺そうとやってきた相手でも、相手がどんな人物かを即座に見抜く力がある人のようだ。腰の据わった落ち着きのある態度と、じっくりと刻むように言葉を放つ次郎長の貫禄が鯉栄先生から溢れ出していた。周りの取り巻き連中も個性的で、桶屋の間抜けだけど憎めない明るさが面白い。
張り扇の渇いた音によって小気味良く紡がれる物語は、目には見えないが心では感じられる確かな人情の温かさがあって、溌溂として力強い鯉栄先生の語りと相まって、清々しい気持ちになる。
清水次郎長伝は連続物と言って、今で言えば漫画のように幾つもの話があって一つの作品となっている話である。漫画『ONE PIECE』は清水次郎長伝を下敷きとしているという話もあるから、清水次郎長はモンキー・D・ルフィのような存在である。海道一の大親分として名を馳せる次郎長と、海賊王を目指すルフィには多くの共通点があるので、『ONE PIECE』が好きな人は清水次郎長伝をオススメしたい。
一つの作品を聞くだけでも、他にどんな話があるのだろうかという興味が湧いてくる。一話聞けばまた一話と、連続物の楽しみは増していく。ここに『掛け算』がある。
一を聞けば二、二を聞けば四、四を聞けば十六と、倍々に楽しみが増えていくのが連続物の魅力であるから、一話二話でバイバイせずに聞いていただきたい。清水次郎長伝は浪曲にも落語にもなっているから、一度ハマってしまったら、それこそすべてを聞きたくなってしまうだろう。どこを切り取っても連続物は面白いので、自分が面白い!と思えるような一席に出会ったら、そこから様々なエピソードが積み重なっていく。掛け算の結果は『積』と呼ばれているように、自分の中に連続物の話が積み上がっていくと、色んな角度から物語を楽しむことができる。是非とも、講談の世界の、大いなる連続物の世界へと足を踏み入れてはいかがだろうか。

古今亭文菊 野ざらし

  • 古今亭文菊師匠

齢四十にして名人の雰囲気を放つ文菊師匠。ダイエット中とのことで、脂肪から何からあらゆるものを削ぎ落す、『除算』の姿勢がここにある。『除算』とは『割り算』とも呼ばれ、2で4を割れば2、3を2で割れば1余り1というように割っていく演算である。
無駄なものを削ぎ落して、徹底的に古典の世界を作り上げていく文菊師匠の語り。現代的な言葉は少なく、まるで江戸時代からタイムスリップしてきた人が落語をやっているかのようである。
演目に入るまでは、確かに自分たちと同じ世界に生きている人だと思っていたのだが、マクラから演目に入ると、一瞬で世界が現代から江戸へと一変し、目の前には江戸時代の噺家がいるような錯覚をしてしまう。袖から文菊師匠が現れた際に聞こえた「待ってました!」の掛け声も、三道楽の話も、円菊師匠の言葉も、競馬の話も、馬の皮が太鼓に使われている話も、スパッと空間を割かれて現代に留め置かれる。気が付けば、観客は長屋にいる。
さて、『割り算』の結果は『商』と『剰余』である。『商』とは『分け与えること』で、『剰余』は『分け与えた余り』である。商売とは分け与えることによって剰余(対価)を得ることであると言われている。
『野ざらし』に出てくる八五郎は、隣の長屋に住む男(尾形清十郎)が女と良い仲になっているのを見て、訳を問い詰める。高校生の時分、彼女のいなかった友人に急に彼女が出来たのを見て、「お前、いつ付き合い始めたんだよ!訳を話せよ!」というように、どうにかして彼女と付き合った理由や知恵を『分け与えて』もらおうとした私自身を思い出すのだが、私の友人同様、尾形も渋って八五郎に話をなかなか聞かせてはくれない。
釣りの帰りに野ざらしになった頭蓋骨を発見し、哀れに思って酒を与えて供養をしたら、その骨がお礼にやってきたという尾形の話を聞いて、八五郎は「だったら俺も!」と陽気に鼻歌を歌いながら骨を釣りに出かける。
文菊師匠の絶品の美声による唄は、たとえ歌詞の意味が分からなくとも、雰囲気の陽気さで楽しさが伝わってくる。釣り糸を垂らしながら口ずさまれる陽気な唄に耳を傾けているだけで、ぱあっと釣りの風景が見え、八五郎の能天気さが感じられるのだから不思議だ。
文菊師匠はあらゆるものを『除き』ながら、同時に、観客が落語の世界を『覗き』に来ることを『望ん』でいると思う。だからこそ、今では使われなくなった言葉も、敢えて説明をすることがない。すべてを語ることで、落語を聞く者の楽しみを奪わないようにしている。そして、精緻な古典の世界を描くからこそ、不必要な言葉を一切挟まないのである。徹底した言葉選びによって生み出された文菊師匠の古典落語は、落語に興味を持った人間を大いなる古典落語の世界へと誘ってくれる。
骨釣りへと繰り出した八五郎は、普通に釣りをしていた人達の間に割って入る。正常な釣り場に異常な考えを持った男が乱入すると、たちまち場は混乱に包まれる。感覚的には2/2だった釣り場に、いきなり913/7がやってきた感じであろうか。これはもはや脅威である。 浮かれっぱなしの八五郎は釣り棹に餌も付けずに投げたかと思えば、釣り針が鼻に引っかかる。その時の文菊師匠の顔が何とも言えない間抜けな表情をしていて、会場は爆笑の渦に包まれていた。
釣り針を捨て、鼻に傷を負いながらも陽気に歌を歌い、骨との淡い恋の妄想を膨らませる八五郎の姿が滑稽で面白い。底抜けな間抜けさを持ちながらも、どこかあっけらかんとして威勢がいい八五郎の姿が最高に面白かった。
最後は、お目当ての骨を見つけて喜び、尾形同様に酒を与えて家で待機する八五郎なのだが、幇間(太鼓持ち)がやってきてオチとなる。このオチに、文菊師匠は冒頭のマクラで些細な一言を絡ませていることにお気づきだろうか。
現代的な言葉を除いたことによって、観客が覗いた『野ざらし』の陽気な世界。骨というまさに肉も皮も削ぎ落し、芯だけが残ったかのような絶品の芸に酔いしれて終演。

 総括 わからなくても大丈夫
 「落語は難しい」とか、「落語は専門用語が多くて分からない!」という人も、算数を学び、四則演算を学んだように、落語を好きになる方法は幾つもある。落語には無限の可能性があって、丁度、文菊師匠が釣り竿を振り回す場面で∞を描いていたように、色んな話を色んな噺家で楽しむという∞の楽しみが落語を聞く者には与えられている。その楽しみをそのままにしておくか、もっと割ったり、あるいは足したり、あるいは引いたり、あるいは掛けたりするかは、落語や講談、浪曲に触れた人に委ねられている。
 そして、わからなくても大丈夫なのだ。わからなくて当たり前なのだ。落語を聞き続けていたら必ずわかる日が来る。知らず知らずのうちに日本語を覚えたように、千里の道も一歩から始まるのだ。
 勢いに溢れた成長する竹を早送りで見ているかのような文吾さんの『寄せ算』による『和』の一席、人と人との『引き算』によって生じる『差』を認めながら、すべてを包み込んで作品にする鯉八さんの一席。性別なんて関係ないと思わせるような、男女の心を掛け合わせた『掛け算』によって積み上げられた鯉栄先生の『積』の一席。あらゆる不必要を『除算』して精緻に組み上げられた『商』と『剰余』を見せた文菊師匠の一席。どれも算数を知っている人なら、ご理解いただけるだろう。そんな素敵な回だった。
寄席には、素敵な加減乗除が随所にある。そして、それらの芸は、単純な式には収まらない。あなた次第で、一が十になったり、十が三になったりするのだ。
 丁度、渋谷らくごも同じである。
 なにせ、四人でも娯楽なのだから。

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「渋谷らくご」9/14 公演 感想まとめ

写真:渋谷らくごスタッフ
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