渋谷らくご

渋谷らくごプレビュー&レビュー

2020年 2月14日(金)~18日(火)

開場=開演30分前 / *浪曲 **講談 / 出演者は予告なく変わることがあります。

イラスト

イラスト

2月16日(日)14:00~16:00 台所おさん 柳家わさび 立川吉笑 隅田川馬石

「渋谷らくご」だれかにハマる!個性炸裂の落語会

ツイート

今月の見どころを表示

プレビュー

落語というのは、古典にしても創作にしても、語る人の声や語り方、ニュアンス、そしてどういう話のなかでその演目をやったかによって、だいぶ印象が変わるものです。この回は、そうした「語る人の個性」に注目していただけるとより楽しめるかもしれません。
なんてことない世間話でも思わずニコニコして聞いてしまうおさん師匠、物事をななめから見るちょっと意地悪なわさび師匠、まくらも落語もスリリングな展開で想像もつかない世界に連れて行ってくれる吉笑さん。そしてトリは、何人もマネできない馬石師匠!

▽台所おさん だいどころ おさん
31歳で入門、芸歴18年目、2016年3月真打昇進。自分よりも年下の師匠に入門をする。落語家になる前に、東京から大阪まで歩いて旅したことがある。いま缶コーヒーでは「Café de BOSS ほろあまエスプレッソ」がお気に入り。いまは自転車で行動している。

▽柳家わさび やなぎや わさび
23歳で入門、芸歴16年目、2008年二つ目昇進。2019年9月に真打昇進。痩せ形で現在の体重は52kg。雨の日は長靴に合羽の完全防備。わさび師匠のお母様がたまに渋谷らくごに見にきてくださる。お母様も背が高い。最近ナース服を着てみた。

▽立川吉笑 たてかわ きっしょう
26歳で入門、現在芸歴9年目、2012年4月二つ目昇進。もともとは酒豪だったが、酒断ちをしていまは炭酸水で過ごす。先日、あこがれの図書館に行ってきた。Voicyにて「立川吉笑の落語入門」を毎日配信中、フォロワーが着実に増えていっている。

▽隅田川馬石 すみだがわ ばせき
24歳で入門、芸歴26年目、2007年3月真打昇進。フルマラソンのベストタイムは、4時間を切るほどの速さ。寒くなると肉まんが恋しくなる。近所であれば自転車で行動する。隅田川を自転車で渡るときに感じる風が好き。

レビュー

文:森野照葉Twitter:@MORINO7851992

台所おさん(だいどころ おさん)-大工調べ
柳家わさび(やなぎや わさび)-ガマの油
立川吉笑(たてかわ きっしょう)-ヘリウム工場横裁判所
隅田川馬石(すみだがわ ばせき)-宿屋の富

『我忘我返』


 人は自分以外のものを思いやるとき、美しく我を忘れる。例えば、熱いアイロンに我が子が触れそうになったとき、その子の母親が身を挺して子を守り、自分の手に熱いアイロンが触れ火傷しようとも、にっこりと我が子に向かって「大丈夫?」と微笑む姿。
 また、我を忘れている人は美しい。電車内で席に座り、夢中になって本を読んでいる人の姿、動物園で気に入った動物を見つけた子の姿、酒に酔っぱらって綺麗な女性に声をかける紳士の姿。誰もが皆、自分以外の人を思いやって我を忘れる。こと渋谷においては、数多くの我を忘れた人々が、怪しいネオンの輝く横文字の建物に消えていき、朝まで我に返らない。
大人になればなるほど、我を忘れることが難しくなってくる。社会に出れば責任が付きまとい、目を背けられぬ現実に耐え切れなくもなるだろう。だからこそ、我を忘れなければならない時間というものが必要で、長い時間、我に返らずにいられるものに出会いたくなる。
それが、ユーロスペースで行われる渋谷らくごにはある。
今宵は、『我を忘れて、我に返らず』にいられる最高の会を体験した。四者四様、誰もが『我忘我返』の心持ちにさせてくれた。

台所おさん 大工調べ

  • 台所おさん師匠

  高座に上がったおさん師匠の「おさんです」の一言だけで、それがおさん師匠の名前であることと、台所でお産をする産婦の姿が同時に頭の中にやってきて、現実と想像のミスマッチ感に思わず笑みが零れてしまう。
おさん師匠の醸し出す素朴な雰囲気が堪らなく好きで、喩えて言うならば、公園の落ち葉を丁寧に拾い集めて、素敵な栞を拵えそうな雰囲気がおさん師匠にあるのだ。日常の何気ない風景から幸福を見出すかのような瞳を見ていると、自分の心が磨かれるような気持ちになって、今日は炊き立ての白米を誰かのために炊いてあげよう、袋に入ったレトルトカレーを湯煎して、温かい白米にかけて食べさせてあげようという気持ちになる。要するに『思いやりに溢れた雰囲気』を感じるのだ。いつも誰かのために、一所懸命に生きている感じと言えば良いだろうか。
そんな雰囲気を感じるおさん師匠の『大工調べ』は、大工道具を家賃の代わりに取り上げられた与太郎のために、大工の棟梁が大活躍するお噺である。登場人物の誰もが誰かを思いやっていて、優しい雰囲気があるのだけれど、ふとした弾みで互いの意見が食い違った途端、それまでの優しい雰囲気が一気に形を変えて、ぴりぴりとした雰囲気に変わる。
大家さんが与太郎の大工道具を取り上げたことに対して怒る棟梁は、完全に我を忘れて啖呵を切る。烈火のごとく言葉を捲し立てて、大家の行いや情に対して自分の言葉で思いをぶつける。それは全て、与太郎のためなのだ。与太郎のために、棟梁は我を忘れて大家に言葉を放つ。
道理としては大家さんの言い分が正しいと思うのだけれど、人の情として棟梁が正しいと思う。理屈とか、道理とかよりも、我を忘れて自分の思いを言葉にして喋り続ける棟梁の姿は、格好良くて優しくて、思いやりがあって美しい。棟梁は与太郎のために、我を忘れてしまう粋な人なのだ。そして、それを語るおさん師匠も、きっと誰かのために我を忘れてしまう粋な人なのだろう。私も誰かのために、『大工調べ』の棟梁のように、言葉を放つ日が来るのだろうか。

柳家わさび ガマの油

  • 柳家わさび師匠

髪を伸ばしてがらりと雰囲気の変わったわさび師匠。坊主のときよりもシティ・ボーイ感が増し、都内の図書館で日本の古典文学を愛読する文系男子のような佇まい。ようやく自我というか、抑制されてきたお洒落への欲望が顔を出し、徐々に自らのスタイルを確立しようとする野心のようなものが見え隠れしつつも、話題は東大出身というような名前の俳優さんとの番組、『落語ディーパー』の裏話。
わさびさんは周りの人を良く観察していて、何より先輩である一之輔師匠のことをとても嬉しそうにお話される。わさびさんにとっては、日常生活の全てが落語に繋がっているのかも知れない。先輩で売れっ子の一之輔師匠や、同世代で勢いのある立川吉笑さんの姿を横目に見ながら、自らの落語を淡々と突き詰めていくような、そんな静かな野心を私はわさびさんに感じるのである。それでも時折、色んな目にあって、息抜きしたくなる時もあるのだろう。その息抜きさえも落語に込めて、わさびさんは語るのだろう。
『ガマの油』に登場する油売りの商人は、酒を飲まず商売に集中しているときは、立派な口上で商品を紹介するが、お酒を飲んで欲に目が眩むと、我を忘れて不適当なことを口走ってしまう。間抜けな姿なのだけれど、一所懸命な油売りの口上を聞いているぶん、なんだか憎めなくて面白い。酔っぱらって本来の自分を忘れてしまう油売りの姿が人間らしくて好きだ。我を忘れても商売っ気を失わない野心が素晴らしいと思う。
 また、仕事を終えた油売りの現代的な行動が面白かった。SNS時代の今、エゴサーチする人の様子を巧みに噺の中に入れ込んでいて、そのリアリティに思わず笑ってしまった。我にふと返る瞬間も、はっとして面白い。

立川吉笑 ヘリウム工場横裁判所

  • 立川吉笑さん

 吉笑さんもまた、わさびさんのような観察者であり、落語を別の言葉に置き換えて、戦略的に自らの認知度を高めている賢い人である。論理的な思考の持ち主で、難しい数学の方程式をさらりと解いて、簡単な解き方を教えてくれるような、それでいて自分自身はさらなる難問に挑んでいるような、良くも悪くも賢い人であるような気がする。
 わさびさん同様『落語ディーパー』の裏話を語られたのだが、吉笑さんはより自分のために、隙あらばネタにしようという野心を感じる。吉笑さんも落語のためなら我を忘れて、我に返らない人であるように思う。その戦略的かつ鮮やかな手法が、聞いていて参考にしたいくらい巧みであり、見事に落語を土台に昇華させているのだから凄まじい。
 裁判所のお話から、新作落語へと入った瞬間、「絶対に普通じゃないぞ、どこかで想像も付かない仕掛けをしてくるぞ」と私は構えた。
 名前もそのままに『ヘリウム工場横裁判所』という演目は、我を忘れて、一度その状況を受け入れたら、決して我に返らずに、想像の世界に身を委ねることによって、爆発的な面白さに包まれる最高のお話である。
吉笑さんの論理性が十二分に発揮された精緻な世界に「なんじゃそりゃ」とか、「ありえない」などと思ってはならない。「そういうものなのだろう」と受け入れること。すなわち、聞いている観客も我を忘れて物語に入り込まなければならない。それは、安部公房の小説や、シュルレアリスムの絵画を読んだり見たときに、特異な世界をありのままに受け入れる感覚に近い。現実の物差しで空想は測れないのだ。
それはさておき、吉笑さんの語りを聞いていれば自然に我を忘れてしまうので、私は思い切りお話を楽しむことができた。
 想像の世界に疑問の余地も現実の価値観もいらない。頭を空っぽにして、我を忘れたら、話が終わるまで我に返ってはならない。それを教えてくれる非現実的な素晴らしい一席だった。ひょっとしたら、日本のどこかにそんな裁判所があるのかも知れない。

隅田川馬石師匠 宿屋の富

  • 隅田川馬石師匠

 トリを飾る馬石師匠と言えば、馬石師匠自身も我を忘れた語りであるし、それを聞く観客も我を忘れるし、一度馬石師匠の我を忘れた語りに没頭してしまえば、一席が終わるまで決して我に返ることがなく、我に返ったあとも、その我が何だったか分からなくなるくらいに痺れる落語をされる噺家である。
 声も仕草も表情も、見聞きしているだけであっさりと我を忘れることが出来る馬石師匠の落語は、いつどこでどんな話を聞いても、すぐに落語の世界に没頭できる。  演目の『宿屋の富』もまた、宝くじで大金を当てるために我を忘れた人達が、我に返るまでの間、思い思いに夢を語る部分が面白い。夢もまた、我を忘れさせてくれる。それは、夢という、理想の世界を思うからこそであろう。人なら誰しもが一度は必ず憧れる理想の形。夢の中にいる間こそ、我を失くしている時間であり、それはとても幸福なことだと思う。そう考えると、馬石師匠の落語を聞いている時間は、夢の中にいるような心持ちになる時間だ。
 金持ちに纏わるありえない話をする客に対して、宿屋の主が一切の疑いを持たずに信じる光景がとても面白い。我を忘れるには、相手の言葉を素直に受け入れる気持ちが必要なのだろうと思う。大人になれば、少しは疑いの目が育ちそうなものだが、馬石師匠の落語には疑いを持たず、全てを受け入れる人が実に魅力的である。
 宝くじが当たると信じている人が、当たらなかったときの姿を思い描いているのも面白い。理想と現実の差異に笑ってしまう。また、夢が叶って大金を手にした人が、慌てふためいて我を忘れ、狂喜乱舞する姿も、馬石師匠は本当に宝くじを当てたことがあるんじゃないかと思うほど素晴らしくて、それが堪らなく面白かった。
 今こうして文章を書く段階になると、さすがに私は我を取り戻しているから大丈夫なのだが、聞き終えた瞬間、すなわち我に返った瞬間は、それこそ興奮が止まらなかった。
 完全に別世界を生きていたように思ったのだ。それはおさん師匠から馬石師匠までずっと、落語の世界に没頭していたからこそ沸き起こった興奮である。
 我を忘れて、我に返ることなく没頭した二時間。巨額の富は得ずとも、目には見えない最高の喜びを味わったように思う。
渋谷らくごを出て、様々な建物を眺めながら駅へと向かう道中、渋谷にはまだまだ自分の知らない、夢のような世界があるのだと思うと、胸が高鳴った。果たして私は、どんなことに我を忘れて、我に返らない時間を過ごすのだろうか。期待に胸膨らませながら、家路につくのだった。

【この日のお客様の感想】
「渋谷らくご」2/16 公演 感想まとめ

写真:渋谷らくごスタッフ
写真の無断転載・無断利用を禁じます。