渋谷らくご

渋谷らくごプレビュー&レビュー

2016年 1月8日(金)~12日(火)

開場=開演30分前 / *浪曲 **講談 / 出演者は予告なく変わることがあります。

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1月8日(金)18:00~19:00 立川こしら、桂春蝶

「ふたりらくご」

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プレビュー

落語立川流真打のなかにあって一際異彩を放ち続ける立川こしら師匠と、上方の爆笑王子、桂春蝶師匠。
実はこの二人、おなじ1975年生まれ、落語界にあってはまだまだ若い部類に入りますが、フレッシュでありながら、百戦錬磨の歴戦の古豪のような引き出しの多さでお客さまを魅了します。

渋谷らくごではマクラも含めて一度たりともおなじ噺をしていないこしら師匠は、客席の様子を見ながら身辺雑記で会場を沸かせ、「ついでに」落語をやるというような見せ方で、まずはお客さまの肩の力を抜き、笑いにくる人たちを満足させます。寄席に出ることがない立川流の落語家ですので、活動は自分の独演会を中心にしていらっしゃいます。このスタイルで毎月日本中を駆け巡っておられます。

春蝶師匠は大阪、桂春團治一門の若き俊英、東京にも活動の拠点をもち、日々東京、大阪間を往復、こちらも日本中を活動の場としていらっしゃる師匠です。軽妙さでお客様の緊張を解きながら、「じっくりと噺を聴かせる」ことを自然にやってのける力量。

どのような場所での経験も笑いに繋げ、観察の対象になる。今後の落語界の空気を変えていくであろう二人の競演です。

レビュー

Twitter:@_yanakanji 物書き修行中

あそぶこしらと緩急の春蝶

  • 立川こしら師匠

    立川こしら師匠

言うまでもなく、落語のことを由緒正しき伝統芸能だと思って通ぶっているひとにはウケないでしょう。茶髪だし。この日あとに上がる桂春蝶師匠を「『かつら』だし『ちょう』だから桂米朝師匠と何か縁があるんでしょう。孫弟子かな?」なんておっしゃっていたし。上方落語を数えるほどしか観たことのないぼくでも、それはなんとなく違うのでは……とうっすら思う、観客にはやさしいけれどちょっと不安になるボケです。「ちゃうわ」って誰か出てきちゃった、あ、この方が春蝶師匠か。ツッコミのためにわざわざ出ていらっしゃるのが上方っぽい、と勝手にテンションが上がります。

まあ十中八九冗談だと思うんですが、本気で言ってらっしゃるのかも……なんて思わせる雰囲気がこしら師匠にはあります。落語界の伝統とか一門とか系譜とか、気にならないし気にしません、みたいなアウトロー。どちらにせよ、落語はそんなことは考えなくても楽しめるというのはたしかです。

こしら師匠の芸は、落語はどこまで落語であれるかという挑戦というか、落語というジャンル、メディアそのもので遊んでいるような気がします。古典落語の演目を銘打って、実際に演じられるのはその演目がこれ以上ないほどポップに歪められた何か。たとえば演者がギラギラの衣装で登場しても、突然地の文というか演じている側であるところの噺家が自分の事情をベラベラ喋り出しても、古典落語なのに江戸の時代には絶対にありえないカタカナ語が飛び出しても、ネット社会に明るい若者にしかわからないネタがふんだんに盛り込まれていても、でも、それは落語なんです。けしてコントや漫談にはならない。

ポップでシュールでコミカルな世界観を落語という皿に載せて提供するこしら師匠のバランス感覚と、どんなに元の要素を失っているようにみえてもまだその形を失わない落語の懐の広さ。いつかこのからくりがわかるかも、とついつい何度も観たくなります。

この日の演目というか元ネタは『夢金』。寝言で「百両ほしい~」とわめくほど金にがめつい船頭がいる船宿に、ある夜更け、浪人崩れと身なりのよい若い娘がやってきて船を出すよう頼みます。男の金払いのよさに釣られ船頭は船を出しますが、実は男は娘を殺して懐の金を奪おうと企んでいた極悪人。手を貸すよう脅された船頭が機転を利かせてどうにかその場を切り抜け、礼金として大金を手に入れたと思いきや……という噺です。本来は中州で娘を殺せば上げ潮で遺体が流れ翌日になってもあがらない、と侍を言いくるめて中州に降ろし、そのまま娘を乗せて取って返すという噺ですが、こしら師匠の世界観。そのまま終わるはずもありません。

あとから娘といっしょに降りるから地面を踏み固めておいてくれと男を先に降ろすところまではおおむねふつうの夢金ですが、散々男をからかった挙句逃げ帰ろうとしたところ浅瀬に船底が突っかかって船が沈みかけてしまう。終わった、と思いきや夜釣りをしていた田舎者が現れ、船を借りることができる。しかし船は二人乗り、上げ潮が来れば中州は沈むので急いで岸に戻らなければならないが男と娘を二人きりにすれば娘は殺されてしまうし、田舎者と娘、田舎者と男をそれぞれ二人きりにするとこの田舎者がとんでもない好色家で大変なことになってしまう。船頭は頭を働かせ、どこかで聞いたようなパズルを……。

落語と論理パズル。ふつうなら出会うことのないふたつの要素を組み合わせて、落語というものをより身近なものにメタモルフォーゼされてしまうこしら師匠。来月の口演も目が離せません。

  • 桂春蝶師匠

    桂春蝶師匠

  • 出ていらっしゃった春蝶師匠は愛嬌があって親しみやすいお顔立ち。こしら師匠のマクラに苦笑いでツッコミを入れ、上方に馴染のない観客のためにざっとその系譜を紹介してくださいます。一門によりそれぞれに持ち味というのがあるそうで、それをコンパクトかつ面白く紹介していらっしゃるさまを観ているとなんとなく上方の風が吹いてくるような気がします。

    マクラではいろいろな先輩芸人のエピソードなどを話していらっしゃいましたが、Twitterやブログに書くのは禁止。観客がマクラをインターネットで公開することで、芸人が非難を浴びて自粛するようになってしまったらつまらないのは観客。「自分で自分のクビを絞めることになりますよ!」と迫真の春蝶師匠。すみません、レビューだけは書かせてください。炎上しないように注意しますから。

    落語ほど「ナマの特権」が強い芸能はないのではないか、とゆるいファンながら何年も思ってきました。ナマで観るのと、映像や音源できくのとはぜんぜん違う。この師匠のこの噺が大好きだから、とテレビ番組を録画してみても、不思議と会場で観たときの面白さはどこにも見当たらなかったり、そもそも内容が頭に入ってこなかったり、なんてことがよくあります。どうやら録画や録音といった技術と落語というものの相性は悪いようなのですが、理由の分析は研究者の方におまかせしておきます。

    ただ明確なことは、カメラが入っているところでは噺家さんはとっておきのマクラはしゃべってはくれないし、これはぜったいに電波にはのせられないだろうな、というちょっと後ろめたいワクワク感を演者と観客で共有する愉しみはクセになるということです。

    そして落語という芸そのものにも、ふしぎとその感じはついて回ります。だからこのレビューを読んでいる暇があるなら、落語を観にいく算段でもしていただきたいのですが。

    さて、落語はナマで観ろと言いましたが、そうなると東京に住んでいる限り上方落語は気軽にはきけないことになってしまいます。ああ、シブラクがあってよかった。

    さて、春蝶師匠が語り始めた噺は『一文笛』。腕利きのスリ・秀(ひで)のところへ兄貴分がやってきてカタギの仕事に就くよう勧めますが、物心ついたときからこの仕事しかしたことがないからと断る秀。自分なりの信念があって仕事していると言う彼に、では昼間のことをどう説明するのかと詰め寄る兄貴分。兄貴分を訪ねていった折、駄菓子屋でこどもたちがおもちゃの笛に群がっている中、ひとり寂しそうにしていたみすぼらしい身なりの子がかつての自分と重なり、秀はくすねた笛をその子の着物に入れてやったのでした。ところが笛を吹いているその子を見た駄菓子屋の婆はその子が盗ったのだと思い親のところへ連れてゆく。父親にいわれのない罪で激しく叱責されショックを受けた子どもは井戸に身投げをし、さいわいにしてすぐ引き上げられて命は助かったがまだ意識が戻らない。お前のせいで、と兄貴分は秀を激しく責めます。こんなことになるなんて、と自分の行いを悔やむ秀。もうスリは辞める、と己の右手の人差し指と中指をすっぱり切り落としてみせます。覚悟を見せ、どうにかして子どもを助けたい一心で奔走する秀をだんだんと見直してゆく兄貴分ですが……。

    ダイジェストでストーリーをお伝えできるようがんばってみたのですが、これでも大分端折った箇所があるほどにこの噺は濃厚です。それをあますところなく熱演してくださった春蝶師匠。途中、衣擦れの音でも聞こえるほど観客が静まり返って固唾を吞んだ緊迫の場面もありましたが、最後には落語らしい救いもある人情噺。オチのひとことで観客の緊張を一気に緩め、余韻を残したゆったりした空気に変えた春蝶師匠の緩急はさすがでした。それまでどこかへ消え去っていたはじめの愛嬌と親しみやすさがお顔に戻り、観客をほっとさせてくださります。

    個人的な趣味で人情噺をききたいと思う噺家さんはなかなかないのですが、春蝶師匠はぼくのなかで久しぶりに出会った「人情噺をききたい噺家」でした。もちろん滑稽噺もきいてみたいし、ほかの人情噺も愉しみ。ああ、上方落語留学がしてみたい。

    「渋谷らくご」1/8 公演 感想まとめ