渋谷らくご

渋谷らくごプレビュー&レビュー

2016年 2月12日(金)~16日(火)

開場=開演30分前 / *浪曲 **講談 / 出演者は予告なく変わることがあります。

イラスト

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2月13日(土)17:00~19:00 古今亭志ん八、立川左談次、柳家ろべえ、柳家喜多八

「渋谷らくご」映画『の・ようなもの のようなもの』コラボ回+夢のタッグふたたび

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プレビュー

 『家族ゲーム』や『阿修羅のごとく』で知られる森田芳光監督の劇場デビュー作に「の・ようなもの」という、落語界を描いた映画があります。ばかばかしくて、暖かくて、人間臭い落語界が描かれているのですが、それから35年たった2016年、俳優の松山ケンイチさんが主演で『の・ようなもの の ようなもの』が公開されました。前作の落語界のその後を描いた作品なのですが、その劇中に登場する落語こそが、この回のトップバッターである志ん八さんがつくられた創作らくご『デメキン』なのです。なんと今回は、志ん八さんに、その『デメキン』をやって頂くとともに、開演前に「の・ようなもの の ようなもの」のお話を伺うトークコーナーもあります。描かれている人間臭くて暖かい登場人物が出てくる志ん八さんの落語をぜひお楽しみください。ほかに、一席やってくださる予定です。

 志ん八さんおなじ二つ目のろべえさん、先月の最終公演で超満員の客席で見事トリを取りました。骨太の古典らくごを真正面からぶつかっている若手落語家さん、いま月を隔てるごとに落語が面白くなって、急成長をしているのが手に取るようにわかります。

 そのほかにこの回は、左談次師匠と喜多八師匠の夢のタッグに注目。人生をかけて磨き続けている落語を繰り広げ続けている大ベテランの師匠が登場します。先月の左談次師匠の「阿武松」という落語が気持ちよすぎて、頭がスパークしたようになりました。喜多八師匠の落語は古典落語なのに聴くたびに、落語の新しさと面白さを発見してしまう。落語を味わい尽くしてください。

レビュー

文:梁観児 Twitter:@_yanakanji 物書き修行中

2月13日(土) 17時~ 19時「渋谷らくご」
古今亭志ん八(ここんてい しんぱち)「出目金(でめきん)/狸賽(たぬさい)」
立川左談次(たてかわ さだんじ)「浮世床(うきよどこ)」
柳家ろべえ(やなぎや ろべえ)「お見立て(おみたて)」
柳家喜多八(やなぎや きたはち)「居残り佐平次(いのこりさへいじ)」

深淵を覗く噺家

 落語ブームがくるかも、というフワフワした期待感みたいなものがなんとなくあるような気がします。漫画『昭和元禄 落語心中』アニメ化に、35年前の名作映画の続編である映画『の・ようなもの のようなもの』公開。
そして他メディアに落語が取り上げられると、しっかりとキャッチアップしてゆくのがシブラクです。初心者向け、と銘打っていますが、例えるならバリアフリーというよりはユニバーサルデザインに近いイメージ。もっと手軽に、もっと幅広く、どんなひとにも落語を愉しんでもらいたい。そんな意識が感じられます。落語って、そんな気負って観るものじゃないよ、とはぼくも何度か友人知人に言ったことがありますが、とにかくライトに落語にアクセスしてほしい、という思いには共感しつつ、でも心のどこかで「ハマったら後戻りできないぞ」なんて気持ちを隠してにんまりしているのも事実。そしてこれは落語を勧める誰もが持つ少し後ろ暗い感情だと信じています。
そんな奥深い落語へ、何も知らないひとがうっかり足を踏み入れるきっかけとして、シブラクは『昭和元禄 落語心中』にちなんで「黙認企画」を。そして公開中の『の・ようなもの のようなもの』に関しては、作中で主演の松山ケンイチさんが口演する新作落語の原作者である古今亭志ん八さんを顔づけ。今回は開演前にキュレーターのサンキュータツオさんと志ん八さんが映画に関してのオープニングトーク、さらには志ん八さんが希望者に映画のポスターを配るというサービスっぷり。シブラクの会場であるユーロスペースは本来映画館であり、ユーロスペースでは本作を上映していないのにもかかわらず、です。

  • オープニングトーク:古今亭志ん八さんと

    オープニングトーク:古今亭志ん八さんと

 さて、一度舞台袖に引っ込んで、すぐに出番となった志ん八さんは鮮やかなオレンジ色の羽織姿。マクラはやはり映画の秘話が中心となります。噺はもちろん作中で使われた『出目金』、そして「短いのでもう1本」。

はじまった『出目金』は衝撃の物語でした。

  • 古今亭志ん八さん

    古今亭志ん八さん

みやげとして屋台で出目金をすくってきた父親に、「出目金のくせに目が小さいや」と文句を言う息子。人情噺がはじまるのかとおもいきや、志ん八さんは鮮やかなオレンジ色の羽織をパタパタとはためかせ、口をパクパク。まさかの金魚の登場です。落語は扇子と手ぬぐいしか小道具がないと言われ、ひとりで老若男女を演じ分けるためあまり目を引くような派手な着物を着る演者はあまりいないのですが、それを逆手にとって羽織を小道具として使うなんて! 濃いオレンジ色の羽織の袂がパタパタとはためくさまは金魚のヒレにしかみえません。会場がどよめきます。
そう、この噺の主人公は金魚鉢のなかの出目金。それも息子の文句に腹が立って家出、排水溝を伝って川へ逃げてしまいます。川のなかにはなんと魚向けの寿司があり、出目金は大将に勧められて広い世界を見に旅に出ることに。ペンギンに遭ったり、温泉で茹だったり、ストーリーは奇想天外。けれど出目金や彼(?)が出逢うキャラクターたち、作りこまれた展開には夢中にさせられます。そして迎えるなんともキツネにつままれたようなオチ。最初から最後まで笑いっぱなしの一席でした。
 そして唐突に「古典をやります」という宣言。「『お前はたぬき顔だからたぬきの噺をやれ』と言われたんです」との言葉に会場が沸きます。たぬきの顔をまじまじと見たことはないけれど、たしかにきつねかたぬきかで言えば、志ん八さんはたぬきに似ている。愛嬌のある丸顔がきつねに較べると悪辣なイメージのないたぬきと合うのでしょうか。
 はじまったのは『狸賽(たぬさい)』。助けた仔だぬきがお礼に現れ、賭け事好きで生活に困っている男がたぬきをサイコロに化けさせて一儲けしようと企む噺です。このたぬきがなんとも愛嬌があってかわいい。男の役に立つよう必死に努め、男もサイコロに化けた仔だぬきが苦しい目に遭わないよう気遣ってやる。最後にはたぬきの勘違いで企みがばれてしまうのですが、このあともなんだかんだいっしょに暮らしてゆきそうなふたり(ひとりといっぴき)です。
 才能あふれる新作と、親しみの感じられる古典。どちらもまたきいてみたくなる高座でした。

次いであがっていらしたのは立川左談次師匠。

  • 立川左談次師匠

    立川左談次師匠

少し脚がお悪いようで、「こういうのがもうひとり出てきますから」と喜多八師匠ファンを沸かせて座った姿は凛としてダンディ。グレーがかった藤色のお着物がとてもよくお似合いです。普段なかなか立川流の口演を聴くことのないぼくの完全な偏見ですが、立川流の噺家さんは座った瞬間に個性の強さが感じられるような方が多いイメージでした。左談次師匠のたたずまいはそんなぼくの偏見を打ち壊す、いかにも噺家然として飄々、それでいて上品な感じ。
 そんなヴィジュアルに反してマクラでは「ウィキで調べて~」、「ツイッターが~」という言葉がさらっと飛び出し、現代のツールを使いこなしてらっしゃる模様。想像するとなんともかっこいい。それからSMAPの脱退騒動について「脱退するならウチ(※立川流)に相談すればよかったのに」とさらりと触れられたのに会場がどよめいたのも印象的でした。(なんのことだかさっぱり、という方はウィキペディアでお調べください。)
 はじまった噺は『浮世床』。江戸時代には髪結い床の待合が一種の交流スペースのようになっていて、本を読んだり、碁を打ったり、噂話に花を咲かせたり、仲間内でいろいろとコミュニケーションを取っていたようです。『浮世床』はそんな交流スペースに集う若者たちのやりとりを描く群像劇。舞台が変わることも大きな山場を迎えることもないからこそ、変に気負わず、いかにばかばかしくたくさんの登場人物たちの会話をしぜんに演りきるかが難しそうな噺です。
 左談次師匠の『浮世床』は力の入れ具合が絶妙でした。噺の特性上爆笑するようなところはないのですが、なんとなく笑えるし、どこがとは言えないのだけれど、とても好い。
 ところどころ「育休議員かよ」なんて現代の話題を交えたり、かと思えば「現代なら現代、古典なら古典、ハンパに演るな」「俺はセピア色はきらいだよ」とセルフツッコミをなさったり。師匠が江戸と現代とを自由に優雅に行き来するさまに魅せられました。
左談次師匠はご自分のイメージをしっかり理解しつつ、それを裏切ることを次々に口に出してあえてギャップを狙っているような感じがします。いままで現代のネタやメタ的な視点を古典に入れ込むわざは若手の特権だと誤解していましたが、左談次師匠のそれはなんともあざとい、長い芸歴に培われた「年の功」なのかもしれません。

そしてろべえさん。個人的に最近追いかけたい噺家ナンバーワンです。

  • 柳家ろべえさん

    柳家ろべえさん

私服のときのろべえさんとお会いしたことが何度かあるのですが、いつでもすごくおしゃれです。レトロなセルロイドフレームの眼鏡、柄シャツ、濃紺のデニムパンツにチェスターコート。一言でいってしまうとどこからどうみても「サブカルイケメン」です。背負ったリュックに入っているのはMacbookとしか思えない。なんなら低いテーブルにソファを合わせた席しかないような陽の光の差すカフェでインタビューでも受けていそうだし、なんちゃらクリエイターとかノマドワーカーとか、とにかくカタカナと縁がありそうだし到底落語家にはみえない。
ところがこのひとが「入れごと(江戸の噺で現代の話題やカタカナ語を使うようなこと)をしない」「古典をちゃんとやる」が信条、誰よりも落語らしい落語を演る噺家・柳家喜多八の唯一の弟子で、古典落語に真摯に向き合う落語家だから衝撃です。
眼鏡を外して、噺の邪魔にならない無地の着物を纏って、高座にあがってくるその姿はもうどうみても噺家以外のなにでもありません。
マクラでは大師匠である小三治師匠の地方公演についていった際のエピソードと、小三治師匠と喜多八師匠の関係について。ろべえさんはよくマクラで両師匠のお話をされるのですが、今回のマクラは特に印象に残るものでした。師匠方の不思議な私生活ややりとり、そのようすが脳内に浮かんでくるようなろべえさんの語り口に会場が沸きます。
「面白いことをやろうとするな」という小三治師匠の教えをもとに、「ここから先は噺なので面白くないですよ」と前置きしてはじまったのは『お見立て』でした。
 杢兵衛(もくべえ)は黄瀬川花魁(きせがわおいらん)にほれ込んでいますが、当の黄瀬川は田舎臭くて空気の読めない杢兵衛が大嫌い。なんとかして会わずに返そうと若い衆の喜助に「病になった」と嘘をつかせます。ところが杢兵衛は見舞いがしたいと食い下がり、とうとう黄瀬川は自分が死んだことにしますが、今度は……というストーリーです。
 これがすっごく面白い。個人的にはいままでに観たろべえさんの高座でいちばんよかった。
なんといっても杢兵衛大尽の気持ち悪いこと。思わず「え、ろべえさんだよね?」と目を疑うほどです。あの端正な顔といい声の持ち主がどうしてこんなに気持ち悪くみえるのでしょうか。これはいくら客商売といえど死んだことにしてでも顔を合わせたくないな、という驚きの説得力。いままでに観た『お見立て』では「どんな気持ちで黄瀬川と杢兵衛の間を行ったり来たりしてるのかな」と思っていた喜助も、喜助に無理難題を押し付けるわがまま娘にみえていた黄瀬川花魁も、だんだん杢兵衛大尽というモンスターに二人で立ち向かっているようにみえてきます。
花魁の無茶に辟易しながらもどこかで仕方ないと思っているような喜助、嘘を重ねても引き下がらない杢兵衛に苛立ちを募らせる黄瀬川、どんな嘘をつかれても素直に信じつつ絶対に帰ろうとはせずスタンスの変わらない杢兵衛。そのやりとりのおかしさは文章では伝えきれません。
個人的にあまり面白いと思ったことがなかった『お見立て』ですが、細やかな人物描写に魅せられ、大爆笑のうちにあっというまに終わっていました。ぜひもう一度観たい高座です。

最後にあがっていらした喜多八師匠。

  • 柳家喜多八師匠

    柳家喜多八師匠

脚がお悪いのが心配ですが、前座さんに大袈裟なくらいに縋って高座にあがってくるさまはかつてわざと気怠そうに登場してらした頃を思い出します。
先に上がった左談次師匠と一歳違い、噺家然とした佇まいと気負わない語り口はどこか似通ったところがあるようにも感じます。それでいて時代にキャッチアップしてゆく左談次師匠と、古典をそのまま一本気に演る喜多八師匠、芸のスタンスは正反対。でも、お二人とも落語というものを心から愛し、それと戯れているのはたしかに感じられます。
寄席では話の傾向がかぶらないよう、先にあがった演者がやったものと同じジャンルの噺は避けるそうなのですが、「ここじゃそんなのは気にしないでいいから」とろべえさんのお見立てに続いての廓噺(くるわばなし=遊郭が舞台の噺)で『居残り佐平次』が始まります。
喜多八師匠の廓噺は本当にいい。ぼくは落語ファン歴がほぼイコール喜多八師匠ファン歴なので喜多八師匠の高座が心の底から大好きなのですが、そのなかでも好きなのが、廓噺と侍が出てくる噺。どちらも喜多八師匠の持ち味が存分に発揮される要素がギュッと詰まっているような気がします。
『居残り佐平次』はお大尽(おだいじん=お金持ち)のふりをしてとある遊郭で豪遊し、勘定を請求されると金がないのを開き直って店に居付いてしまう男の話です。口が回り、ひとを丸めこむのが巧く、それでいて愛嬌があって憎めない。店が慌ただしく働く者の手が足りてないのをみるやフォローに回り、芸も持っているとあって人気は鰻昇り。とうとう「居残りを呼べ」という客まで現れ、若い衆と出入りの幇間(たいこもち)は商売上がったり、居残りを穏便に追い出す算段を立てます。
 喜多八師匠の演じる佐平次の愉快さたるや。普段は気怠く渋い雰囲気を漂わせている喜多八師匠ですが、スイッチが入ったときの陽気さはギャップもあいまってはじめてみるひとは驚くはずです。勘定を請求する店の者を軽口でけむに巻き、客には気遣いながら思い切りお道化てみせる掴めない男。くるくると立ち働く佐平次のようすと、演じる喜多八師匠の豊かな表情に魅せられます。なるほどこんな男ならば勘定を踏み倒されても強くは出られないなと思いつつも、どこかで気になるのは男の正体。最後まで名前すら明かさない男と、二面性のある男のいわば「陽」の部分を体現する喜多八師匠。目が離せません。
 いくつになっても向上心の衰えない喜多八師匠。以前観たときとは噺のサゲも変わっていました。終盤になってやっと名乗る男、明らかになる正体。急にワルい一面をみせる佐平次にハッと息を呑むはず。これまでずっと舞台のまんなかにいた、たしかにその男がふと違う表情をみせる、その瞬間をぜひ観ていただきたいです。ひとりの人間が一枚の座布団に座って多数のひとを演じ分ける芸である落語。がらりと口調や表情が変わった登場人物は、どうしたらその人間であり続けられるのか。悪い顔、低めた声で凄んでみせる佐平次は、たしかにこれまでずっとひとを笑わせてきた居残りでした。この一席だけで、喜多八師匠の凄さがわかるはず。是非観ていただきたい高座です。

 演者それぞれの持ち味が存分に現れた口演ばかりの贅沢な二時間でした。寄席よりはひとりひとりたっぷりと聴けるけれど、「このひとが聴きたい!」とぐっと引き込まれるとあっというまに終わってしまう三十分の出番。まんまとシブラクの策略にハマっています。そして気が付けば来月の番組できょうの出演者を探している自分が。大満足の今回なのに、もう次を観たくなっている。落語を観るとは、欲深い趣味です。でもいちばん欲深いのはやっぱり、落語という果てしのないものを身のうちに取り込んでしまおうという噺家といういきものなのかもなあ、ともぼんやりと思います。深淵を覗き込むのはこわいから、深淵を覗いているひとのはなしを聴きにいこう。

【この日のほかのお客様の感想】
「渋谷らくご」2/13 公演 感想まとめ